「守られている力」
「守られている力」ー田中利典著述集290116
10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いたた駄を折に触れて転記していますが、今日は6年前の文章です。
今読み返しても、自分なりに納得が出来る。人には常にそういう見えざる力が働いていると思うし、そう思って生きるところに人間の人間たる尊厳があるのかもしれない。
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「守られている力」
教信徒のみなさまは当然ご存じのように、山伏の修行は一般の人々と行者が一緒に歩く。互いに助け合うことを旨とする菩薩行の真骨頂であるが、はじめて参加した人も、もう何十回と山修行をしている人も同じ道を同じように歩くのだ。
山中にはちょっと油断すれば、命を危うくするような行場や道中が連続するが、考えてみればものすごく怖いことである。どういう素性の人か、どの程度の体力があるのか、全くわからないずぶの素人をそういう危険な場所で共にするのである。
はじめて私が大峯奥駈修行の大先達を仰せつかったとき、それまで奉行として隊のサポート役で参加してきたときとは全く違う責任感の大きさを感じたが、一番の負担となったのは、そういう見ず知らずの人を預かるという、恐怖にも似た不安感であった。
そんなプレッシャーを感じながら何度か大先達を勤めたが、ある時、ふと気づいたことがあった。
なんとなく、こういった危険と裏表の厳しい修行に参加する人というのは、どこかで、守られている人なんだなあという、漫然とした感触である。その守っているのが、その人の先祖霊なのか、守護神なのか、あるいは大峯の御本尊金剛蔵王権現なのか、それはそんなに大した霊能力者でもない私にはわからないが、確かに何かに守られている。
守られているからこそ、たとえ何十メートル滑落するような大事故に遭っても、命を救われたり、すんでの所で落ちずに済んだりするのだ。
そう思いついてからは大先達のプレッシャーからかなり解放されたが、これはもしかすると奥駈修行だけのことではなく、いかなる場所でも、そして誰にでも当てはまることなのかも知れない。
例えば海外旅行に行って、最後の最後、守ってくれるのはツアー会社でもなく日本国でも、まして当該国でもなく、まさに自分自身の聖なる守りの力なのではないだろうか?奇禍に遭うか遭わないか、事故から逃れるか巻き込まれるか、その差があるとするなら、その人の持っている守られている力の差なのではないか、そう私は思うのだ。
さて、そう思うなら、普段から先祖を大切にし、鎮守の神さま、ご縁のあった本尊様と親しくしておくことが大事だとわかるだろう。いや、それをきちんとわかることは危険この上ない人生を生きていく中でとても大切なことなのである。
いかが思われるや…。「南無蔵王一仏哀愍納受悉地成就」
ー「金峯山時報平成22年2月号所収、蔵王清風」より
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*写真は過去に行じた大峯奥駈の行中です。
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