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 「修行をしてもなんにもならん」ー田中利典著述集290428

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「修行をしてもなんにもならん」ー田中利典著述集290428

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今回は昨日と打って変わって、ずいぶん大昔の文章です。もう20年も前になります。でも「行」の本質は変わりません。

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「修行をしてもなんにもならん」

道元禅師の有名な言葉に「仏道をならうというは自己をならうなり」(『正法眼蔵』)というのがある。簡単に言うなら、「仏道を学ぶということは自己を学ぶということである」というほどの意味であるが、その真理は深い。

「修行はすればするほど悟りから遠ざかる」と言った叡岳の千日回峰行者がおられるが、同じようなことを、金峯山の千日行者成就院師からも聞いたことがある。千日回峰という過酷な難行を通して、徹底的に自己を学んだ上での、謙虚な心境の吐露なのだろう。

先年、筆者も一千座護摩供という112日にわたる不断護摩のお行を修行させていただいた。その修行中、満行が近づくにつれて感じたことは、修行をしてもなんにもならんかったなあという正直な気持ちであった。自分自身、これにはちょっとショックで、もう少し何か得るものがあるはずだと思っていただけに、修行達成の喜びとは裏腹に、どんどんと落ち込んでいった。満行式を終えてもそれは変わらなかった。

それで思いあぐねて、満行式に臨席いただいた順教管長猊下にそのことを告げると、「苦しい修行をしてもなんにもならんという、それがわかっただけでいいんだ」と教誡いただいた。この言葉は本当に有り難かった。これで初めて、満行を実感させていただくことができたのであった。

修行をして、仏道をならって、つまらん自分を実感する、それが仏道修行の始まりなのではないだろうか。「仏道をならうというは自己をならうなり」という言葉の真意のひとつはその辺にあるのだと理解している。

今、金峯山は二人目の千日行者が生まれようとしている。平成三年に入行以来、今年で数えて七五四日を達成し、平成十一年には満願を迎える。是非、仏道に自己をならい、金峯山の修行者に相応しい謙虚で神々しい、千日行者になってほしいものである。   

ー「金峯山時報平成9年9月号所収、蔵王清風」より

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金峯山寺の回峰行はいまも続いていて、今年もまたこの5月から新たな回峰行者が修行に入る。千日行者は本編の塩沼行者(平成11年満行)以来なかなか出ないが、百日回峰行は、ほぼ毎年成満者が出ていて、それぞれ個性豊かな行者たちの顔が思い浮かぶ。今年も魔事なく、無事満行を念じてやまない。

*写真は平成5年に行じた一千座護摩供修行時の筆者(撮影藤田庄市氏)。

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