「人はかならず死ぬ」 ー田中利典著述集290426
「人はかならず死ぬ」 ー田中利典著述集290426
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今回は葬儀に関わるお話です。
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「人はかならず死ぬ」
ここしばらくの間に友人、知人が次々を亡くなった。先月には親しかった九州の本宗教師Sさん。大酒のみの、豪快な女傑・・・大らかさがなんとも大好きでしたね。年明けには吉野町の観光参事だったKさん。いろいろお世話になりました。そして奈良県庁の職員で、奈良県と金峯山寺が事業連携を始めた頃からの友人だったTさん。洒脱でひょうひょうとした人なつっこい愛すべき変人だった。参事のKさんは老境だったが、あとの二人は六十代と五十前半と、思いもよらぬ早い別れとなった。
「人は生まれて来て、必ず死にます。人類はじまって以来、未だ死ななかった人はひとりもいません。その死に方もいろいろです。生まれてすぐ死ぬ人、十歳で死ぬ人、四十歳で死ぬ人、六十歳で死ぬ人、百歳まで生きる人…。その時、人は、たとえば十歳や四十歳で亡くなると、まだまだやりたいことや、し残したことがあったろうに、可哀相だと思うものです。でも何歳で死んでも、仏さまは『いろいろあったろうが、お前のこの世でやるべき事は全て終えたのだよ』…といっておられると私は信じます。残された家族にとって辛い事かも知れませんが、あとは生きている人たちの宿題です。亡くなった方は仏様にもういいんだよ、と言ってもらっていると思って、心残さず、送ってあげて下さい」と、ご遺体を前にして、私は葬儀の席では家族の皆さんにそんなお話をするようにしている。
もちろん、自分が遺族の立場になったら、そうは思えないかもしれないし、哀切の情に取り乱すこともあるかもしれないが、自分のときのことはさておいても、人に対して、亡者に対して、臨終時の僧侶の役目とはそういうものなのだと思っている。
私の話は実は遺族に対しての部分より、死者そのものへの語りかけに思いがある。「魂は実在する」と私は思っている。死んだ当初、死者によっては自分の死そのものをまだ受け止めかねている人もいるだろう。肉体から魂が抜け出して、遺体のそばで不思議そうに自分の体を天井あたりから見ている、そんな感じを持っているのである。
死んですぐ大きな光に導かれて、今生をあとにする霊魂もあるだろうが、大体はしばらく自分の遺体のそばで、じっとみているものなのだそうだ。もちろん死んだことがないので、証明など出来ないが、そういう思いで遺体と接するのである。
このところ惜別の情に悲しむ日々が続いているが、亡くなった人の思い出をたどるとともに、彼らの死を通して、僧侶としての役割を改めて自覚させていただいている。
ー「金峯山時報平成27年2月号所収、蔵王清風」より
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ご存じの方もあるが、昨年から縁があって、真夏に東京ビッグサイトで開催されている「エンディング産業展」のイベントに招かれている。お檀家を持たない、いわゆる葬式専業ではない僧侶なので、めったに葬儀は関わらないだけに、こういう催しにふさわしいのかどうか、はなはだ怪しい。でもまあ、頼まれた仕事は基本的に断らない主義の私は、のこのこと出かけているのである。
昨年はあの壇蜜さんとのトークセッションだった。今年も予定をしておいてほしいと言われていて、8月23日は東京ビッグサイトに行く予定である。対談の女優さんはまだ未定らしい。納棺師に関わる来年公開の新作映画の主演女優さんが候補だと当初は聞いていたけれど、予定が変わったようで、まだ誰かはわからない。
直葬、家族葬、樹木葬、散骨などと葬儀をとりまく環境が激変している現代社会。無縁社会などとわけのわからない言葉が流行り、人心が惑い続けているだけに、きちんと「死」に向き合うことは大切だ!、と思っているのは私だけではあるまい。
*写真は昨年のエンディング産業展の様子。
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