「人はいつか死ぬ・・・」ー田中利典著述集290414
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
齢還暦を超えて、私もそろそろいろんなことに思いを致す年齢です。「死」を思うことは「生」と向き合うことだと実感しています。
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「人はいつか死ぬ・・・」
人はいつか死ぬものです。人類史上未だかつて、死ななかった人はなく、お釈迦さまも孔子もイエス・キリストも、みなさん、死んだのです…と、冗談のように法話でよく言うのですが、そういうわけですから、私だけが死なないなどということはありえないです。
そんなことは誰でも知っているはずですよね。まして、いつ死ぬのか、どこでどうやって死ぬのか、それは神のみぞ知るところで、私たちのあずかり知らぬことなのです。
ま、どこでどうやって死のうと、何歳で、何が原因で死のうと、そういう要因には関係なく、はっきりとしているのは、死んだ瞬間にこの世での貴方の命は終わったのです。ただここで思っておかないいけない肝心なことがあります。
どこでどう死のうと、なにが原因で死のうと死んだその瞬間に、仏さまに、神さまに「それでいいんだよ」って言ってもらっている、そういうふうに死を受け入れることが幸せなんだ、ということです。実は信仰を持って、神さま仏さまと一緒に生きているって言うことは、そういうことなんだと私は思っています。
概ね人は幼くして亡くなったり、あるいは幼い子どもをおいて壮年期に亡くなったり、交通事故や大きな飛行機事故など奇禍に遭って亡くなったりしたとき、「可哀想に。まだまだこの世に未練があったろうに…」と思うものですが、でも仏さまや神さまは、貴方の命が尽きた瞬間に「この世での貴方の役割は終わったのだよ。いろいろ失敗もしたろうし、やり残したこともあるだろうが、貴方の人生はこれでおわりなのだから、それでいいんだよ。次はまた失敗を繰り返さないように頑張ろうね…」と言って貰っていると思えるなら、その人は救われるわけです。
そう思えないと死んでも救われないことになってしまいます。残された人の思いは別にしても、死者にとっての、死んで救われるというのは究極そういうことだと私は思うのです。
所詮私たち人間は生きている限り失敗や後悔の繰り返しなのですから、死んだ後まで、取り返しのつかないことに懊悩させられるのでは堪ったものではありません。神さまや仏さまに死んだ後くらいは大きく受け止めていただいていると思える、そういう信仰心を日頃から培っていたいものだと思っています。
ー「金峯山時報平成22年5月号所収、蔵王清風」より
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閑話休題。昨年から夏に開催される東京ビッグサイトでのエンディング産業展にご縁が出来て、イベント会場であの壇蜜さんとトークセッションをさせていただきました。
どうやら今年も壇蜜さん以上の大物女優さんとのセッションがあるかもしれません。可否の詳細は後日になりますが、自分の「死」に向き合うことは誰にとっても他人事とではないだけに、様々な人と一緒に、深く考えて行きたいと思います。
*写真は壇蜜vs田中利典。
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