「お地蔵さま賛歌ー田中利典著述集290510」
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。
今回はもう14年前の文章。この気持ちはいまも変わりません。日本人、みんなが大好きだった「お地蔵様」。それはいまでも変わらない、と思いたいです。
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「お地蔵さま賛歌」
過日、家の近くのお地蔵さんで地蔵盆のお参りをした。近所の子供達と親が集まり、掃除をして、お供えをして、お勤めをしたのだ。お勤めは般若心経と地蔵菩薩の真言。「おん・かー・かー・か・びさまえー・そわか」と子供達にもお地蔵さまの真言を教えて、一緒にお唱えをしてもらった。
いつの頃からか、日本人は無宗教であるという流言が世間に充ち満ちている。耐えられない流言だ。日本人は決して無宗教であるはずがない。日本人ほど宗教的な民族はいないといっていくらい宗教的なのだ。ばかな文化人か、欧米政策に踊らされた売国奴の人種が垂れ流す誠に無知な流言なのである。
なにをもって日本人は宗教的な民族であるかというと、冒頭に書いた地蔵盆の光景などはその典型的な一例である。村の辻辻にはお地蔵さんが祀られていて、その土地土地に住む子供たちの成長を見守り続け、子供達も村々の鎮守様同様に、辻の地蔵様を拝んできた。
そんなことは誰でもが知っていたし、どこでも行われていたことだった。無宗教の民族がそんなことをするはずがなく、いまだ細々ながらでも続けられているはずがない。子供のそばでいつも見守るお地蔵さんのことは誰もが知っている。
お地蔵さんも拝む、村の鎮守さまも拝む、家の仏壇も拝む、神棚も拝む…それは日本独自の習俗や信仰なのかもしれない。少なくともキリスト教やイスラム教など一神教社会のような唯一絶対の神だけしか認めない民族からすれば、いろんな神さん仏さんを雑多のまま拝んでしまう日本人は無宗教に映るかも知れないが、四季の恵み豊かな日本の風土は、一神教を誕生させた砂漠の民たちには理解できない、多様な価値観を肯定する優れた感性が培われてきたのだ。地蔵盆のお勤めをしながら今更ながらそんな思いを抱いていた。
「おん・かー・かー・か・びさまえー・そわか」のかーかーかーとはお地蔵さんの笑い声である。子供と共に生き、子供の成長を見守り続けた地蔵様の歓声である。この声が聞こえる限り、日本の明日はまだまだ捨てたもんじゃないと思っている。子供達に地蔵さんの真言を唱えさせながら、いつまでもこの地蔵さんの笑い声がとぎれない日本の民衆文化を自負心を持って、継承させていきたいと願うものである
ー「金峯山時報平成15年9月号所収、蔵王清風」より
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この間、子供とお墓参りに行きました。途中で、件のお地蔵様の前を行き来します。そのたびに子供が黙ってお地蔵様にお辞儀して、通っていました。幼い頃、毎日のように、おばあちゃんに手を引かれて、このお地蔵様にお参りしていましたが、そういう日課が、いまでも子供にお地蔵様への、畏敬の気持ちを伝えているのだと思って、嬉しくなりました。変な理屈をこねるより、こういうことが一番大事なのだと思います。
*写真は子供のことが大好きなお地蔵様です。
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