「一即多の多神教」ー田中利典著述集290505
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。
今日は8年前の文章。あの頃は「一即多」のフレーズがマイブームだったなあ。
いまですか?いまは「グローカル」です。
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「一即多の多神教」
この六月に青年僧の会で記念講演をお願いしている哲学者の内山節さんとは、三年ほど前から知己を得て、親しくしていただいている。
その内山さんと話しているときに、欧米の一神教と日本の多神教との比較の話になり、私の持論を興味深く聞いていただいたことがある。私は欧米の一神教がいうところの多神教と、日本の多神教とは少し意味合いが違うと思っている。日本人の多神教観は単なる八百万の神という認識ではなく、一即多の多神教だと思っている。
つまりこういうことだ。八百万の神々は天照大神に帰一し、その天照大神が八百万の神に展開している。別のものではなく、同じものの表れとみるのだ。仏教的に、別の言い方をすると、曼荼羅世界の神々・仏たちは全て大日如来に帰一し、大日如来を開けると曼荼羅世界に遍満する諸尊に展開するのである。一、即ち、多なのだ。
これに対して、欧米世界の多神教観はそうではない。一神教が生まれる前の段階の、アニミズムや原始形態の信仰が多神教世界で、その多神教が淘汰されて一神教が生まれたのだとする。一神教以前の、未熟な宗教形態として、多神教を切って捨てるのである。日本との違いは大きい。
さてなぜ学者でもない私が「一即多」の宗教観を披瀝したのかというと、それが私の信仰観に基づくからである。その辺が哲学者と信仰者の違いで、内山先生もそこに大きな興味を持たれたようである。
私はもう十数度、大峯奥駈修行を遂行したが、あの大峯連山はまさに神仏在す曼荼羅世界である。大峯峯中、釈迦岳の手前、両峯分けの靡きを持って、北側が金剛界曼荼羅、南側が胎蔵界曼荼羅とするが、大峯連山には金剛界・胎蔵界の曼荼羅諸尊が遍満していて、その中を行じさせていただくのが奥駈修行なのだ。
そしてここが肝心なのだが、その曼荼羅世界の諸尊諸菩薩は全てご本尊金剛蔵王権現に帰一している、と金峯山修験は説く。
蔵王権現の別名を「金剛胎蔵王如来」と呼ぶのはその由縁で、曼荼羅世界の全てを統べる大霊格が蔵王権現なのである。その蔵王権現の身体の中で跋渉苦行するのが我々の大峯修行なのである。
私はこれまで、あれもよい、これもよいとするのが日本的宗教信条だと言ってきた。それは評論としての文化観である。しかし信仰者としての信条は決してそれではいけないと思っている。蔵王一仏に帰依できてこそ、吉野修験、金峯山修験の本物の信仰者なのである。
最近蔵王権現様の前に座るたびに「拝み方が足りん!」と叱られているような気持ちになるが、それは蔵王一仏の本尊観がまだまだ脆弱だという不徳の現れにちがいない。
あいかわらず耳障りのよいことばかりを言っているように聞こえるかも知れないが、未熟なるが故に、蔵王一仏を生涯の指針として、これからも行じさせていただければと願うばかりである。
ー「金峯山時報平成21年5月号所収、蔵王清風」より
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ここしばらくのマイブームフレーズは「一即多」「土に還ろう」「グローカル」と続いているが、文中に出てきた内山節先生との出会いがかなり影響しています。先生は現状日本の、数少ない叡智の一人とも言える哲学者です。先生との出会いは私にとってとても大きなものとなっています。
内山先生。8年前に青年僧の会でお招きして以降もときどきお会いしていますが、今回、久しぶりに、今度は東京で開いている私塾「誇り塾」の6月講座(6/17開催)に来て頂きます。基調講演とトークセッションを行います。いまからとても楽しみです。…塾生以外のビジターの方にも参加を呼びかける予定ですよ。
「内山節vs田中利典/聖地吉野より見える世界とその未来~グローバリズムとローカリズム」に興味のある方は直メールくださいませ。
*写真はグローカルなご本尊:蔵王権現像(提供:金峯山寺)。
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