「法華経、おそろしや」ー田中利典著述集290504
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。
今日のもそうとう古い文章です。というか、昨日掲載した翌月の文章。20年前です。あの頃、毎月、法華経を解説してましたね。まる3年。鎌田茂雄さんの「法華経購読」(講談社文庫刊)を種本に、毎月1品ずつ、解説と読誦を行っていましたねえ。なんにもわかっていなかったくせに…。相当、恥ずかしいなあ。
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「法華経、おそろしや」
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」。これは法華経如来寿量品の最後の四句である。日頃の勤行では何気なく唱えている読み慣れた経文であるが、過日、私の担当する研修会で、ちょうどこの如来寿量品を講読したとき、この一節に胸を詰まらせたことがある。
それは寿量品の解説を一通り終えて、みんなで偈文の書き下しを読み上げていたときであった。「毎に自らこの念を作す、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」。
この一偈が誠にどうにも有り難くなってきて、自分ながら驚いてしまったのである。涙が滲みだし有り難さが心にじんと響くのであった。懸命に泣くまい泣くまいと歯をくいしばってふと目を上げると、席の前列の二、三人の人が、やはり小生と同じように感無量の表情を湛えている。こんなことがあるのだろうかと、不思議なくらいの有り難さであった。
二年あまり、この研修会では法華経の講読は続いているが、あんなことは後にも先にも一度きりであるが、本当に法華経の有り難さが身にしみた一時であった。それ以後、法華経講読の冒頭では必ず、この寿量品の偈文をみんなで読み上げることにしている。
法華経には五つの功徳が説かれている。受持・読・誦・解説・書写の五つである。受持とは持つことであるが、本当はただ持つのではなく、法華経の教えを堅く信じ、堅持することをいう。でも単に持つだけでもそれはそれで功徳にはなる。読とは目で見て読むこと、誦とは暗唱すること、心の中で繰り返し読むこと。
解説は法華経の意味を理解し、人々に説いていくこと。書写とは写すこと、つまり法華経の写経である。これらは五種の功徳であると共に、五種法師の修行でもある。法華経を広める人のことを法師というが、その法師が行ずるべき修行が受持・読・誦・解説・書写の五つなのである。
この五種法師の修行、当初、漫然と受けとめていたが、寿量品の冥加に出会って以後、読誦の大切さに思いを致すようになった。何よりも我々は法華経を読まなければならないのである。しかも身にしみて有り難くなるような読み方をしなければならない。近頃真剣にそう思っている。
実は法華経を読み出して不思議なことがもう一つある。それは法華経を読み進めば読み進むほど、先の五種法師の修行を私に行じさせようと、法華経自体が問いかけてくるのである。強要してくるといった方が正確かも知れない。
それはちょっと怖い感じさえする。法華経とはそんな不思議な経典であるが、先に述べたように法華経は間違いなく有り難い経典でもある。その法華経が修験道にとっては中心的経典であることは自明のことである。是非、多くの人に法華経の縁に連なっていただきたいと思っている次第である
ー「金峯山時報平成9年3月号所収、蔵王清風」より
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「一昼夜法華経不断行」という修行を金峯山寺ではじめるきっかけになったのは、40代はじめに、ここに書いたように法華経を三年にわたって講義して、いかに法華経の全巻をみんな誰も読んでいないという、宗門の現実に触れたからでした。
それは「法華経を読み進めば読み進むほど、先の五種法師の修行を私に行じさせようと、法華経自体が問いかけてくるのである…」という自覚が私を動かしたともいえます。法華経、おそろしや、なのです。
*金峯山寺の法華経不断経開闢法要のようす(提供:金峯山寺)。
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