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「母との時間」ー田中利典著述集290506

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「母との時間」ー田中利典著述集290506

過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。

今日は今年で7回忌を迎える母が、まだ生前中に書いた拙文。母の日が近いので、なんとなく母のことを思い出し、転記させていただくことにした。

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「母との時間」

五月初旬、毎日、母を病院に見舞った。といっても金峯山寺での単身赴任中の私のことなので、自坊に帰ってきていたゴールデンウィーク期間の数日、それも多くて日に二時間くらいしか病床にはいられない。とても介護というようなものではなく、申し訳なく思うばかりである。

それでも母の側に居る間は手をさすったり、足を優しくもんだりしている。そんな母に触れるほどに、ずいぶん弱ったものだと思う。日に日に衰弱していく姿に、大したこともしてやれないもどかしさを感じ、胸が潰れそうになる。

母は心臓と肝臓と腎臓の機能が著しく低下しているが、それでも意識はしっかりしていて話は出来る。

江戸時代の禅師・正受老人が「病中は只是れ六道修行、ひたすら病犬猫の態にて六道に流転せよ流転窮まりて断滅せん」と教えを遺しておられる。要は「病気ほどよき修行はないと心得よ。病気になった犬や猫のように羞恥心を捨てよ。医師や看護師の言うがまま、されるがままに打ちまかせ、心中で六道流転せよ。流転に流転を重ねて窮まった時、執着や迷いは断滅す」というほどの意味である。

自分ではなにも出来なくなりつつある母は、そんな自分を覚悟しているようで、身体の痛みを除いては、ほとんど文句を言わない。自宅看護が難しいので、もう自宅へは戻れないかもしれないことも、常時は家族がそばに付き添えないことも、すっかり受け入れている。まさに正受老人の境地にいるかのような穏やかさである。

そんな母は涙なしでは接しられないような容態であっても、どこか凛として私には映る。自分が病気を得てもこうはいかないだろうと正直思うほどである。

母は一月から綾部市内のS病院に緊急入院し、三月から主治医が居るK病院に転院した。ここ二年は入退院を繰り返したが、今回の入院ではなにかすっかり覚悟があるのか、執着心や迷いというのがそげ落ちているように思えるのである。両病院ともたいへんよくして頂いているが、でもS病院の担当医師の愛想の悪さには辟易したし、K病院にも改善をお願いしたいことはたくさんある。まあそれは身内の欲というもので、側に居られない分、母の介護は医師や看護師さんに頼るほかはなく、ただありがたいと、心から感謝合掌するのみである。

母に遺された時間があといくばくかは知らないが、出来るだけ、今の気持ちのまま、心穏やかに毎日を過ごしてもらいたいと願っている。ご本尊のご加護のもとに…

ー「金峯山時報平成23年6月号所収、蔵王清風」より

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この年の秋、母は静かに今生を終えた。前日、見舞いに帰った私は病床でいろいろと話をした。「よくいままで頑張ったね。ありがとうね」と母に言った。その翌朝、ひっそりと亡くなった。いつも言ったことがないような殊勝なお礼などを言ったので、安心して逝ったのかもしれないと後悔したが、あのまま、長らく病床にいるのは、それはそれで辛かったろうと思う。

母の日…。おかあさんのいる方は、ちゃんとお礼を言ってあげてくださいね。私はお仏壇の前でしか、もう言えなくなってしまいました。

「かあさん。生んでくれて、育ててくれて、ありがとね…」

*写真は母が元気な頃、親しい仲間たちとの記念写真。中央が母です。

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