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「天命・・・」

「天命・・・」

今日、午前中に一般社団法人自然環境文化推進機構の総会に出て、午後から京都の法蔵館にお邪魔して、京都の帰りに、嵯峨野まで足を伸ばして、空援隊専務理事の倉田宇山さんをお訪ねした。

昨年、国際宗教同志会でご一緒して以来、とても親しくしていただいて、先日も舞鶴においでになった道すがら、私の体を心配して、自坊にお寄りいただいたりした。今日は倉田さんの道場にお邪魔して、先日につづき、手当をしていただいてきた。

ところで、倉田さんがいま取り組んでおられる、第二次世界大戦での日本兵のご遺骨帰還活動であるが、まさに倉田さんしか出来ない「天命」だと思う。そんな話で盛り上がった。

しかしながら、聞けば聞くほど、戦後72年を経てなお、いっこうに進んでいない現状を憂慮するものである。

昨年、私のラジオ番組でもこのお話をお聞きしたが、是非、多くの日本人に、この問題をしっていただきたい。みんなが知るところからしか現状の変革は出来ないように思う。

いま、ふたたび戦争をしようという流れが見え隠れするが、もし戦争を始めるなら、先の戦争で亡くなったまま、外地にほったらかしにされている日本人のご遺骨を全部帰還させてからにしろ!って、思わすいいたくなる。

もちろん全部帰ってきたって、戦争など二度としてはいけないのだが・・・。

日本人全体が、このご遺骨の問題にはもっと意識を持ってほしいと、あらためて思い、YouTubeのアドレスをアップします。是非、お聞き下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=5e0QsJ3lmBs

さてさて・・・私の天命はいかに。そんなことも思いました。

『父母追慕抄』を発送しました。

『父母追慕抄』を発送しました。

実は私の交友範囲のかなり多くの方々にお送りしました。もらってもねえっていう声も聞こえてきそうです(笑)。

最初、年回忌の記念にこの本を作る話になって、どう考えても、まあ、50部くらいでいいと思っていたのですが、「50部も200部も制作費用は同じだよ」って、編集をお願いした友人のKさんに言われて、「それもそうだな。それじゃあ、いっそ300部ほど、作ろうか」ってことになりました。

でもよく考えると身内や近親者で50部もあれば十分だったわけだから、そんなに作っても、さあ、どうするってことになったわけです。

だったら、200部くらいは、読んでほしいと思う方に、一方的に送りましょ、ってことになって、ついでだから、SNSで告知して、ほしいと思う方に差し上げよう、っていうことになりました。・・・なりましたというか、私が勝手にそうしたのですけど。

実際にSNSでは20名近くの方にお声がけをいただきました。

そんな『父母追慕抄』です。

とにもかくにも、なによりの、父母の供養になればという思いです。

「父母の恩、重きこと、天の極まりなきが如し」というけれど、生前にお返し出来た事って、ほんとにほとんどありゃしないって、やっぱり思いますよねえ。

とりわけ私は、母の見舞いに家に帰って、翌朝、吉野に戻る途中で訃報を聞いたので、側に居てやれなかったことへの、おっきな悔やみが未だに残っています。

「にいちゃんは忙しいからもうええよ…」と口癖のように言われたことも、やっぱり耳元から離れません。

そんなわけで、メールを頂いたみなさん、もらってやって、くださいませ。母の、大笑いの笑顔とともに・・・。

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*本の中にも入れたこの写真は最晩年のデーサービスで撮ってもらった時のもの。

ですので、もう少し若い頃のしゃきっとしたイメージが心に残っている息子としては、なんか、普段見慣れた顔ではなく、まるで仏さんになったような、そんな遺影に思えるのです。かあちゃん、笑い過ぎ!!

「たなかりてんのとれたてワイド763」に出演

おはようございます。肺炎罹患につき、安静休養中のりてんさんです。

ところで毎月第4金曜日は、お昼から地元綾部のFMいかる「たなかりてんのとれたてワイド763」に出演します。先月来、気管支肺炎でダウンしてまして、あのときよりも声は出ていませんが、ガンバリマス。。

メインのコーナーが二つ。ひとつは「ここから始める綾部学」。今回は綾部商工会副会頭の山下信幸さまです。12時15分頃からの放送です。

またならどっとFMとの共同企画「りてんさんの知人友人探訪」にはなんと、あの京都・清水寺の森清順貫主猊下にご登場していただきます。年末に「今年の一文字」を揮毫される大僧正猊下です。1時15分過ぎかな。こちらは先日清水さんにお邪魔して、収録してるので助かります。このときもすんごいかすれ声ですが。

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まあ、ご存じのように、気管支肺炎がまだ完治してないので、声が35%。先月の50%より落ちています。お聞き苦しいところは明日香ちゃんに助けて貰おうと思っております。

放送時間は正午から午後2時半までの生放送です。よろしければ、お聞きください。

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放送はhttp://www.jcbasimul.com/?radio=fmikaru ←こちらでリアルタイムにに聴くことが出来ます。

*写真は森猊下との収録の様子です。

「あらためて、父母追慕抄」

「あらためて、父母追慕抄」

今月19日の父母の年回忌法要記念に、いままで書きためた両親に関わる私のエッセイをとりまとめ、父母への追善の資として、上梓した「父母追慕抄」。

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法要当日にお渡しした方から、「親子の情愛をあらためて深く感じた…」など、たいへんご好評をいただいて、作成した私としてはとても嬉しく思っています。独りよがりな本でしたので、おそるおそるの出版でした。

全9編。頁数では36頁という薄い冊子です。おかげで装丁はなかなか美しい(写真参照)。両親の遺影や、父と私との、幼い頃の写真なども載っています。私はどちらかというと、おとうちゃん子でしたから・・・。

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ところで、実は少々校正上での手違いなどがあって、法要当日分だけ、先に届けていただきました。そして本日、直しの完成分が送られてきました。法要にはお招きしなかった親戚や、父母とのご縁、お弟子さんたちや直接縁の深かった一部のみなさまには、今週末にはお送りしようと思っています。

そんなにたくさん刷ったわけではないのですが、SNSをご覧のみなさまにも、ご希望があれば、お届けしようと思います。父、母への追善供養になればと思いますので・・・。残り部数は50ほどですから、まあ、いわば、早いもの勝ちです(笑)。

すでに何人かの方からご希望いただいておりますが、今なら、今週末に一緒に発送しますので、一両日中に、私宛、ご希望の方はご連絡ください。

メアド:yosino32@gmail.com まで、恐れ入りますが、送り先とお名前をお教えくださいませ。もしかすれば、昔に住所などお聞きしている方でも、住所管理が下手な人間ですので、手元にない場合があります。そこのところ、よろしくお願いいたします。

「つらつら思うに・・・」

「つらつら思うに・・・」

私は2歳の頃に肺炎で死にかけた・・・。この話は何度か講演でお話ししたり、ものの本にも書いたりしている。それが縁で、山伏に導かれたようなものである。

そして今回の肺炎罹患。還暦から数えると、生活をリセットしてやはり2歳の歳。あらためて人生二度目の肺炎なのだと気づいた。死ぬような病状ではなかったが、1ヶ月以上患うといろいろと気づくこともある。体以上に心がへばっているしね。

昨日の夢もなにか符合するような気がして、新たな思いで、今の自分を考えている。

でも、まあ、ここしばらくは安静安静・・・。

幸い今日の病院での検査結果は上々の内容だった。あいかわらず夜中の咳はひどいが、肺炎の炎症は回復基調にあることがわかり、安心した。これで病状まで悪化していたら、本気で長期入院するはめになってしまうに違いない。

空室がなく、入院せずに、また先月よりも重篤ではないので、しばらくは自宅での養生生活となった。もう少し我慢ですね。

夢のお告げ・・・

咳のおかげか、夕べは小さなまどろみを何度も繰り返す長い夜を過ごしたせいで、沢山の夢をみた。そのほとんどを覚えているが、最初の夢はショートショートの小説にしたいくらいの、奇妙きてれつな夢だった。そして、最後のみた夢の二つがとんでもなく、心を揺れ動かしてくれた。

最後から二番目の夢と最後の夢には父と、父と同じくらいお世話になった師が出てこられた。父はいまの私の体を心配してくれているのだろうと思う。昨日の法事のお礼のつもりなのかもしれないが、そのわりには母は来なかった。二人はあの世では一緒にいないのかなあと、わけのわからない、少なくともどっちにしろ、仏教的ではない考えで、そのことを受け止めていた。

最後の夢は、大きな意味を夢の中で、伝えていただいていたように思う。目が覚めて、思い出すほどに、私にはその意味がもの凄くよくわかった。夢の中で大きなものを授けられていた。

いづれも妄想とかたづけてしまえば、それだけのことである。
それも含めて、体の養生につとめなさいとの、たくさんの方からの夢のお告げだったと思っている。

「父母への追慕抄~父母の恩重きこと天の極まりなきが如し」

「父母への追慕抄~父母の恩重きこと天の極まりなきが如し」

今日は父と母の年忌法要を営んだ。父は17回忌、母は7回忌である。祥月命日は父は7月、母は10月であるが、諸般の事情もあり、少し早めに合同での法要をつとめることとなった。

思いもよらない肺炎罹患中という、不具合なタイミングとなってしまった。ま、それはそれで仕方がないことである。

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朝から、弟の良知管長も長男のMくんを伴って帰綾し、私のお弟子で父母との縁がとりわけ深かった数名の方々にもお参りをいただいた。家族と共に、葬儀のときの写真などを回し見などをして、みんなで父母の生前を偲んだ。死して、父は16年、母は6年。月日の過ぎ越しはホントに早いものである。

もう今後は、父母の法事で家族以外が寄ることもないだろうということもあって、この合同法要を記念して、『父母の追慕抄~父母の恩重きこと天の極まりなきが如し』という全36頁ばかりの小冊子を制作した。過去に金峯山寺の機関紙、やその他の雑誌などで書いてきた、父母に関わる私の文章をとりまとめたものである。

父母の供養になればという気持ちと、なにか、父母の足跡を残したいという、いわば私のわがままな思いだけで、編纂したものである。

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幸い編集者の池谷さんという友人がいて、彼とは金峯山寺関連の書籍出版でなんども仕事をしており、今回も彼の手を借りて、上梓したのである。

私の文章の中ではずぬけて有名?な「回転焼きと母」など、9編をおさめている。フェイスブックなどで何度か載せたものばかりであるが、本になってみるとまた一段と見栄えをよく感ずるものである。

もちろん、父母の供養にと編集したなので、ご縁のあった方には読んでいただく予定である。もし興味がある方は私宛にご連絡をくだされば、お送りいたしますよ。

写真は『父母追慕抄』と本日の合同年忌法要の様子。

「善と悪」ー田中利典著述集290617

「上求菩提下化衆生」ー田中利典著述集290617

 
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。
 
肺炎罹患で、しばらく休んでいましたが、久しぶりのアップです。
 
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「善と悪」
 
仏教、仏の教えとは何か?という問いに対して、有名な七仏通戒偈を以て「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(諸の悪をやめ、善をなし、自らの心を浄化の努めること、これが時空を越えた仏の教えである)と明快に仏教では答えることは出来る。ではその仏教におけるとは、善とは何か、悪とは何かいうと、これがなかなか難しいが、実はこちらこそが重要なことなのである。
 
大乗仏教者における「善」とは菩薩道の実践である。つまり「上求菩提下化衆生」。この上求菩提下化衆生の精神に叶うことが善であり、それに反することが全て悪なのである。上求菩提下化衆生とは上には自分自身の菩提を求め、下には衆生を共に救うべき働きをすることである。
 
しかもこの上求菩提と下化衆生は別個のものではなく、即でないといけないという。まず自分が救われてから人々を救おうというふうに別々に考えるのは菩薩道ではないのだ。私も未だ救われていないけれども、私が高まることが衆生を救うことになるし、衆生のために働くことがすなわち自分自身の上求菩提の修行になる…そういうものでないといけないというのである。
 
そりゃあそうだ。自分が救われてから、人を救うなど、一生救われない身なるが故に、結局、いつまでもなにも出来ないということになる。
 
筆者は上求菩提下化衆生を、「上求菩提が下化衆生になり、下化衆生が上求菩提になる」と読み替えて、説明している。それが菩薩行なのである。自分が救われていなくても、人のためになにかをすることが自分をも救うことなんだ、という生き方である。
 
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そう考えると何が善で、何が悪のなのか、明確になるだろう。たとえばモノを盗んだり、人を傷つけたりすることで、自分が高まることはないし、人を導くことにもならない。だから悪なのである。またたとえば和顔愛語を実践することによって自分のこころも修行し、他人をも幸せな気持ちにする。だから菩薩行の善なのである。
 
われわれ行者の使命は菩薩行である。是非、善と悪とを、そういう上求菩提下化衆生に照らして考えてみて頂きたいと願う。人々のさまざまな懇請に対して、菩薩行として行うとき、それは全て善であり、自分の金銭的欲求や目先の欲で関わるのなら、それは悪業を積み重ねることになる。毎日の宗教活動、護摩修法や加持作法、それぞれの場面、それぞれの実践の場に即して、自らの心根を計っておきたいモノである。
 
ー「金峯山時報平成14年7月号所収、蔵王清風」より
 
*****************
 
さすがに15年前の記事です。青いなあと思います。でもここ、私の原点かもしれません。なかなか実践には結びつかないし、言ってるような生き方が出来てはいないのですが・・・。
 
*写真は役行者神変大菩薩(金峯山寺蔵)。私はその弟子としての子菩薩でありたいと思います

なにわともあれ、健康が第一

先月の今頃から今回の肺炎に罹患して、ほぼ一ヶ月になります。先月20日にあまりにシンドイので病院での診察を受けましたが、診断は気管支肺炎。

それから月末までの予定を全部キャンセルして養生につとめて、お蔭様で一時はレベル2(最悪の状態をレベル5とするなら・・・)まで回復しました。ところが、6月頭から仕事に復帰して、たちまちレベル4まで逆戻り。慌てて、実は4-7日の予定はキャンセルして、養生につとめ、再度レベル2まで回復しました。

しかしそこから、四国ー大阪ー神戸ー京都ー岐阜とキャンセル出来ない予定が続き、またまた昨日あたりからレベル3.5乃至4のレベルまで落ちてしまいました。外に出てもなるべく安静にし、家に帰れば寝てばかりの生活をしていますが、やはり出歩くのは体に障るようです。免疫力も衰えているのですね。気合いだけではどうしようもないみたいです・・・。

...

今日の講演会はなんとかやりおえ、明日と明後日は東京です。そこはなんとかやりきり、19日の父母の合同年回忌法要以降の予定をしばらく白紙に戻して、綾部に引きこもり、養生をしようと思います。

実は月末までほとんど全日にわたって予定が入っています。でも、ここで休まないと、月末に困ったことになるのがわかりました。ま、心を鬼にして断ろうと思います。みなさん、ごめんなさい。

親しい漢方医の先生から、再三、ともかく安静にしなさいといわれ続けてきましたし、多くの方から、長引くとはお聞きしていましたが、言われていたとおり、長引くし、安静にしない限りは病状が回復しないことが身に沁みてわかりました。

あと3日。なんとか乗り切ろうと思います。

なにわともあれ、健康が第一。ほんまにそう思います。

今日は清水寺へ。

「今日は清水寺へ」

 

今日は清水寺へ。
 
毎月やっています綾部のコミィニティラジオFMいかるの第4金曜日正午~2時半の番組「たなかりてんのとれたてワイド763」で、メインのコーナ「りてんさんの知人友人探訪」・・・。今月は奈良局での収録ではなく、京都の清水寺に伺い、森清範貫主さまにご出演いただきました。
 
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まだ私の声は完治していませんが、なんとか30分弱のインタビューを終えることが出来ました。とても優しくわかりやすく、いろんなお話をお聞き出来ました。ご期待ください。
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放送は6月23日正午から2時半までの番組の中、だいたい午後1時過ぎの予定となっています。
 
サイマルラジオで、どこでもリアルに聴けます
綾部→http://www.jcbasimul.com/?radio=fmikaru
 
*写真は収録の様子と、大修理中の清水寺の大舞台。
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  「綾部ロータリークラブ 卓話」

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「綾部ロータリークラブ 卓話」

今日のお昼は綾部ロータリークラブの卓話に招かれて、京あやべホテルに行きます。写真は今日の卓話のパワポの表紙です。

ご存じのとおり、私は15歳で、綾部を出て、45年間、不在でしたので、綾部でのご縁が極めて少なく、そういう意味で昨年から地元のコミュニティラジオ「エフエムいかる」に出していただいたりして、綾部人を学び直しています。

実はロータリークラブは、NHK大阪放送局局長の依頼で出向した大阪ロータリークラブを始まりに、奈良ロータリー、奈良東ロータリー、橿原ロータリー、大和高田ロータリーなど、たくさんのロータリークラブに呼んでいただきました。

そんな中で、今回、地元の綾部ロータリークラブの卓話にお声がけいただいたことは大変名誉なことであり、嬉しく思っております。

幸い肺炎もほぼ治りまして、なんとか間に合いました。よかったです。

表題は「山伏、大いに語る」ですが、卓話は30分ですので、かすれ声でリハリビ中の私にはちょうどよい長さですね。

「還暦となる君へ…」ー田中利典著述集290601

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「還暦となる君へ…」ー田中利典著述集290601

過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。

これは2年前、自分が還暦年を迎えるに当たって書いた記事。以前にも本稿に載せたかもしれませんが、今年還暦を迎える知人がけっこう私の周りにいるので、敢えて転記してみました。

ほっとけ、っていわれそうですが…。

***************

「還暦となる君へ…」

今年で筆者は還暦を迎える。なんともあっという間の六十年だったなあ、という感である。僧侶になってからの法﨟は四十五年。いづれにしろ「少年老いやすく、学成り難し」そのままの人生といえようか。

「子曰く、吾れ十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う」(論語為政篇)というが、その「耳順う」歳を迎えることとなったのである。

この「耳順う」とは少々聞き慣れない言葉かもしれない。六十歳になったら人の言うことを逆らわず素直に聴けるようになれ、というような意味である。

しかしながら、人の言葉というものは助言にせよ諌言にせよ、なかなか素直に聞けないもの。それは相手との人間関係であったり、自我のなさしむることであったり、いろいろと理由はあるが、人の言葉を言葉の意味のままに理解するのは存外難しいものである。論語を残した孔子でさえ六十歳になってようやく、その境地に至ったと語っているわけであるから、筆者などの凡夫ではなかなか「耳順う」などという域には達せないだろう。

早稲田実業学校の校是に「去華就実」という有名な言葉があると聞いた。外見の華やかさを取り去り、実際に役に立つ人間になる、というほどの意味らしいるが、先日テレビを見ていたら歌手で俳優の武田鉄矢氏が、この「去華就実」を「花散りて次に葉茂り実をむすぶ~」と読み替えて、年齢を重ねるほどに華はなくしていくが、そのかわり実を結ぶのが人生だ、という風に言っていた。なるほどと思ったのであった。

還暦を迎えたからと言って、そんなに老い込むこともないが、それでも若い頃と比べると、足腰の衰えや目や耳の老化に加え、頭の回転の悪さには自分ながら愕然とする。向こう意気だけで突っ走っていたわが人生ながら、もう充分じゃないのかなあという気もするし、「耳順う」歳を思えば、そう嘆くことでもあるまいと思ったりしている。それだからこそ、武田氏の「去華就実」がなるほどと身にしみるのである。

華はこれからもどんどん失って行くに違いない。我を張って生きることを止めて、耳順って生きることも大切である。そうやって生きる中で、人生の実を結ぶことが出来れば幸いと言えよう。そんなことをつれづれに感じている平成二十七年の新年である。

ー「金峯山時報平成27年1月号所収、蔵王清風」より

*****************

還暦って、実際に2年前に越えてみて、なんだか人ごとのままに過ぎたような気がします。今度、信貴山の鈴木管長さまが還暦祝いの大パーティーを催されて、私も招かれていますが、それはそれでおめでたいことです。

私は2年前、集英社新書の拙著上梓に併せて、出版記念パーティーの名前のもとに、5回ほど、お祝いの会を企画開催しましたが(延べになおすと参加者は350名は越える数です)、そういう形で還暦の節目は自分なりにつけさせていただいて、吉野の現役を勇退したのでした。たくさんのお弟子さんがいるのに、弟子さんからの自発的なものでなく、自分でやったというのが如何にも私らしいかも・・・。

まあ、僧侶というのは生き方の問題ですから、生涯、引退はありません。還暦も「死出の旅路の1里塚」というくらいで、ぼつぼつと進みましょう。

*写真は孔子さま。


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