「善と悪」ー田中利典著述集290617
「上求菩提下化衆生」ー田中利典著述集290617
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。
肺炎罹患で、しばらく休んでいましたが、久しぶりのアップです。
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「善と悪」
仏教、仏の教えとは何か?という問いに対して、有名な七仏通戒偈を以て「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(諸の悪をやめ、善をなし、自らの心を浄化の努めること、これが時空を越えた仏の教えである)と明快に仏教では答えることは出来る。ではその仏教におけるとは、善とは何か、悪とは何かいうと、これがなかなか難しいが、実はこちらこそが重要なことなのである。
大乗仏教者における「善」とは菩薩道の実践である。つまり「上求菩提下化衆生」。この上求菩提下化衆生の精神に叶うことが善であり、それに反することが全て悪なのである。上求菩提下化衆生とは上には自分自身の菩提を求め、下には衆生を共に救うべき働きをすることである。
しかもこの上求菩提と下化衆生は別個のものではなく、即でないといけないという。まず自分が救われてから人々を救おうというふうに別々に考えるのは菩薩道ではないのだ。私も未だ救われていないけれども、私が高まることが衆生を救うことになるし、衆生のために働くことがすなわち自分自身の上求菩提の修行になる…そういうものでないといけないというのである。
そりゃあそうだ。自分が救われてから、人を救うなど、一生救われない身なるが故に、結局、いつまでもなにも出来ないということになる。
筆者は上求菩提下化衆生を、「上求菩提が下化衆生になり、下化衆生が上求菩提になる」と読み替えて、説明している。それが菩薩行なのである。自分が救われていなくても、人のためになにかをすることが自分をも救うことなんだ、という生き方である。
そう考えると何が善で、何が悪のなのか、明確になるだろう。たとえばモノを盗んだり、人を傷つけたりすることで、自分が高まることはないし、人を導くことにもならない。だから悪なのである。またたとえば和顔愛語を実践することによって自分のこころも修行し、他人をも幸せな気持ちにする。だから菩薩行の善なのである。
われわれ行者の使命は菩薩行である。是非、善と悪とを、そういう上求菩提下化衆生に照らして考えてみて頂きたいと願う。人々のさまざまな懇請に対して、菩薩行として行うとき、それは全て善であり、自分の金銭的欲求や目先の欲で関わるのなら、それは悪業を積み重ねることになる。毎日の宗教活動、護摩修法や加持作法、それぞれの場面、それぞれの実践の場に即して、自らの心根を計っておきたいモノである。
ー「金峯山時報平成14年7月号所収、蔵王清風」より
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さすがに15年前の記事です。青いなあと思います。でもここ、私の原点かもしれません。なかなか実践には結びつかないし、言ってるような生き方が出来てはいないのですが・・・。
*写真は役行者神変大菩薩(金峯山寺蔵)。私はその弟子としての子菩薩でありたいと思います
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