昨日の続きです。
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「仏教の普遍性について」(下)
現代の日本仏教界最高峰の碩学といえる高野山真言宗の松長有慶師とダライラマ法王との象徴的な面白いやりとりがある。以下、引用をする。
・・・「ダライ・ラマ法王とは集まりの時に環境問題についての話をしました。日本人はものの中にも命を認める考え方を持っている。人間の道具としてものを使うのではなく、ものを命あるものとする、お互いの命の連関の中で環境問題を考えないといけないという話です。
仏教では一切衆生と言います。日本人は石ころでも命あるものとする。山や川も全て命があり、尊崇する。それがまさに自然観だろうと思うのです。しかし、そういう話をすると、いろいろな点で話が合うところと合わないところがあるのです。その点でダライ・ラマは非常に嫌っているのですね。
あの方は、自分がインド仏教のナーランダの伝統を継いでいるのだというプライドを持っておられます。だから、インドのものの考え方をする。よく考えてみると、仏教が中国に来て、動物と植物を衆生に含めるかどうか、一切衆生悉有仏性について、中国人は盛んに議論しているのです。
インド人は、動物、植物は命を持たないものだと考えます。しかし中国では、動物までは認めるけれども植物は認めない、あるいは動物も植物も認めるのか、そういう議論があるのです。
しかし、それが一番盛んに論じられたのは日本仏教です。ですから、日本仏教、特に平安仏教は、天台でも真言でも、そういう意味では一切のものの中に命が含まれている。そして、天地万物が自然環境に根付き、全てのものがそれぞれ命を持っていて、自分の命と同じなのだという考え方がある。この話をすると、ダライ・ラマは『違う』と言うのです。やはり命があるのは人間であり、動物までだということです。
そういう議論をしてその後物別れになったのですが、それから1年ほど経ってまた日本に来られ、一緒にお昼を食べながら話しました。この前あなたが言っていた石ころにも命があるという考え方は、神道の考え方だなと言った。勉強してきたのですね。日本の仏教をそれなりに勉強してきたのです。ですから結局、仏教もそういう考えを持っていた。山や川といった命がないと思われるような全ての存在が命を持つという考えは、やはり日本に来て一番盛んになってきた」(2016年紀伊山地三霊場会議フォーラムより)
本稿では仏教の普遍性について話をしている。キリスト教、イスラム教という世界宗教は自分たちの持った普遍性を全世界に広めようとする教えである。であるから、その土地や国が持ってきた歴史や風土を破壊して、自分たちの宗教だけを広めてきたきらいがある。いま世界を席巻しているグローバルリズムやISのイスラム原理主義っていうのは、そういうキリスト教、イスラム教が持っている価値観を基盤としているところがあるのではないだろうか。
その点、仏教は同じ世界宗教と言うが、それぞれの土地や国の風土を打ち壊して打ち立てるのではなく、うまく融合して、その土地土地に根ざした信仰を育んできたといってもよいだろう。
どちらに本当の普遍性があるのか?そこのところを考えないとこれからの世界はますます困ったことになるように私は思っている。
現状の葬式仏教は糾弾されるべき点はごまんとある。寺族による寺院の私物化をはじめ、僧侶の資質の低下、葬式自体の形骸化と信仰心の希薄化などなど、数え上げればきりがないが、だからといって、あんなものは仏教ではないというなら、日本仏教は仏教ではないことになる。
しかし日本仏教は厳然と今も存在し、日本人の多くの人々の生きる支えと成っている。また葬儀という厳粛なる場を通じて、やはり仏教の持つ大きな力が人々の生きる支えを担う部分もけっして小さくない。
釈迦滅後、本来の仏教などというものはもともとこの世に存在などしていない、と私は思う。ダライラマ法王の説く仏教だって、釈迦が聞いたらひっくり返るかもしれない。わしゃ、そんなこと言うとらん、とのたまうかも知れないのである。
私は仏教が2500年にわたって持ち得た歴史自体が人類の叡智なのだと考えていて、そういう叡智が世界宗教としての仏教を仏教ならしめてきたといってもよいだろうと思う。
あっちこっちに話が言って、味噌も糞もごった煮の話になってしまったが、ふと、朝からそんなことを思いついて、筆を走らせてみた。つっこみどころ満載である。それは私の不徳でしかない。多くの叱責が予想されるので、前もってお詫びをしておく。
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みなさん、すいません。さも今書いたようなことを言っていますが、ほんとはこれ、今年の5月28日に書き上げたもので、実はその日の朝にFBにもアップしています。私のFBを読んでくれている方は、きっと前に見たなあと感づかれたと思いますけど(^_^;)
あの頃は、確か友人が仏教原理主義のような話題を累々と書いていて、そのことに、私自身が違和感があったので、そこを言いたいだけで思わず綴った文章です。まあ、それ以外の他意はありません。いまもその意見は変わっていませんが…(笑)
写真は日本仏教ならではの尊神ともいえる「蔵王権現さま」です。
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