「鼻血のサイン・・・」
「鼻血のサイン・・・」
18日の夕方に最初の鼻血が出た。5分ほどで止まったので気にとめていなかった。
翌日、朝から月例の護摩供を修し、終わったあとの法楽勤行の途中で、再度、鼻血が出た。白の素絹が真っ赤になった。でもしばらくしたら、また止まった。
...その日は一件、出張があり、ちょっとびくびくしながら無事にこなしたが、帰宅して夕食の時に3回目の鼻血。お風呂場で服を脱いで裸になった途端に4回目の鼻血。さすがにやばいのではと思った。
翌日、午前中はゆっくりしていたが、午後に5回目の鼻血が出て、慌てて、隣町の耳鼻咽喉科に駆け込んだ。「あー、鼻腔の入り口に傷跡がありますね。指で押さえておいたら止まりますから」と、簡単な診察で、止血剤を5日分もらって帰って来た。その夜、3回も、鼻血が出た。風呂に入ったのも悪かったのかもしれない。
その翌日は朝から鼻血は出なかったが、やはり不安なので、近くの内科医の診察を受けた。その待合室で9回目の鼻血。少々頼りない内科医だったが、ともかく、普段からかかっている医者に相談しないと言われて返された。
それで22日、朝から、20年来のかかりつけの橿原市の病院に出向いた。既に息子に院長を譲って、私を診ていただいている先生は会長職なので、長い付き合いの方しか診ておられないが、その日は用務で休診になっていたのを直接電話して診ていただいた。
採血、心電図、血液凝固検査などを行ってもらい、結果、過労と不摂生と飲み過ぎだろう・・・ということで薬もいままで同様でよろしいということだった。
実は昨秋、心電図をとったときから、節制しなさいと言われていて、相変わらずの不摂生と過労と暴飲暴食がつづいたために、いわば去年の黄信号が、赤信号に変わったのだと、きつくお叱りを受けた(^^;)
幸い、内科医待合室で9回目の鼻血を出してからはもう3日止まっている。鼻血が出て止まった最初の日の翌朝の護摩修法も塞がりかけた傷口に悪く、花粉や乾燥をしているために鼻腔が弱くなっていて、おまけに不養生のせいで血圧も上がり、再度キレて、それからなかなか塞がらなくなって、9回も出たのだろうという先生の見立てだった。
中でキレてなくてよかったと言われた。肝臓腎臓の機能と血糖値に問題があるので、血圧も含めてよほど用心しなさいとも言われた。一汁一菜、酒を控えて、仕事もほどほどに、しばらく塩分はだめだとも言われて帰って来た。
ともかく、しばらく、十二分に用心と節制を心がけることにする。命は大事だ。
格段、仕事が忙しいわけではなく、節分会前後の不摂生が根本的な原因なのだと自分でもわかっている。ただ、なかなか節制という生活改善に気持ちがいかなかったわけで・・・。大いに反省している。
もう8年ほど前になる。亡くなる少し前の中村勘三郎さんに会った時に、直感したことを思い出す。勘三郎さんと私は同い年。もし、生けていたらお友達になれていたと思うが、ほんとに残念だった。
彼も仕事だけてはなく、きっと全部が破天荒だったので、体が悲鳴をあげていたのに長期休養が出来ず無理をしたのだと思う。病気開けの新歌舞伎座復帰公演で楽屋に招じ入れていただき、「パワーをください」ときつく握手されたことがあった。けっこう無理をしてるなと感じる舞台(演目は「お祭り」)だったので、「休まないとだめですよ」と心を込めて握り返したが、やはりその後の無理がたたったのか、それから1年ほどして帰らぬ人となった。
仕事も遊びも、なまじ体力に自信があるから、若いときは無茶をする。勘三郎さんはきっと普段からタフなひとだったのだろうと感じた。私も人一倍、タフで元気な方である。しかし不摂生は身体にじわじわと負担をかけてしまう。最後は食道がんだったと聞いているが、数年前からの身体の不調が病気のサインだったのだろう。
勘三郎さんと私を比べるのは大変失礼だが、彼との出会いは仕事満載で走り回っていた私にとって、大きなサインだったように思う。そして、今回の鼻血は、あのとき以上の大きなサインだと受け止めている。
*写真は2011年9月の復帰公演でいただいた勘三郎さんの直筆サイン。
« 予告!!!新潮選書『修験道という生き方』発刊 | トップページ | 「半日断食・・・」 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「ダイアローグ」(2019.04.15)
- 「電子書籍版/吉野薫風抄の表題募集結果発表」(2019.03.23)
- 「ご意見、くださいませ・・・!!」(2019.03.16)
- 「半日断食・・・」(2019.02.26)
- 「鼻血のサイン・・・」(2019.02.24)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント