「生と死・・・修験道に学ぶ」(終)
「生と死…修験道に学ぶ」(終)
過去3回にわたりアップした第42回日本自殺予防学会での、講演録の最終校です。
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□まとめとして
この学会では「あるべきように生きるー地域の繋がりの中で自殺を防ぐー」という素晴らしいテーマが掲げされています。
ただしその繋がりは、地域の繋がりという、いわゆる欧米的なコミュニティ社会だけを指すのではなく、もっと広げた、そこに生きてきた人、先祖、過去、歴史、そして未来も含め、文化、風土、自然など全部込みの繋がりであるべきなのではないかと考えます。欧米的なコミュニティ=人間社会だけの地域の繋がりとか、今だけの地域の繋がりではなくて、過去からの繋がり、未来への繋がりも含めたすべての繋がりの中で考えるということが、私は大事なのではないかと思うのです。
何度か、擬死再生ということを申し上げました。擬死再生も実の意味は繋がりにあります。一度死んで生まれ変わるという、死んで終わるのではなくて、一度死んで生まれ変わるところに人間が生きていく生の実感、死の実感がある。そういうことを儀礼として、修行として教えているのが修験の教えであると申しましたが、その真意は繋がる命を見つめるということに尽きるのであります。「死に習う」という教えもまたしかりであります。
最後にもう一度まとめてみました。今回の自殺予防というテーマに関して、修験道から提言をさせて頂く要点を3つ述べておきます。
ひとつは命の実感、生きる実感を持つこと、持たせることというのが大変大事なのではないか。修験の行というのはまさに命の実感の行であります。私どもはいろんな方を受け入れて修行しております。鬱病の方とか、統合失調症の方とか、あるいは見るからに心が病んでいるような方もおいでになります。
そんなみなさんも、断崖絶壁の、自分の身に危険がある場所では必死になって行じておられます。人生に投げやりな人も、自分の命が危ないというその場所になると、必死になって行じます。自殺願望の人さえ、危ない目にあいそうになると、一生懸命自分の命を守ろうと行じます。「死にたかったんちゃうんか」と思うような人でも、その場に行くと一生懸命に岩をよじ登ります。
あるいは修行を終えて、自分の命、自分の生きる実感に出会った時に、生きる意欲を新たに生む方がいます。だからと言って、そんな方ばかり来られると修行になりませんので、あまり喧伝されるのは不具合なのですが‥。そういうこともあったのだという風に今の話は聞いておいて頂ければと思います。
ま、人間というのは厄介なものです。なぜ人間が厄介かというと、動物は生きることに精一杯です。人間は、動物ほど生きることに精一杯ではないから、頭の中で、自分の死を考えたり、自分の将来を考えたり、自分の過去を悔いたりするわけです。犬や猫はそんな暇(いとま)がなく、ライオンやキリンは弱肉強食の世界でそういう考えさえ持つ余裕もなく、みなが必死に生きているわけで、彼らは死という概念をもっているかどうかも分からない。死を知るどころか、生に精一杯である。でも、人間は生に目覚め、死にも目覚めてしまったわけであります。
昨日、私の家の近くの踏切で、88歳の老婆が鉄道の上で座っていて轢かれて亡くなりました。この人が自殺だったのか、ボケていたのかはわかりません。痛ましい事故でした。でもこれからは、そんな悲惨な出来事が社会にどんどん広がっていくのだろうと思います。そんな中で、少なくとも若い人達にとっては、命の実感、生きる実感を持つということが大変大事なのではないか、ということをお伝え出来ればと思います。
2番目。繋がりの中の命の実感。今の自分、今だけの時間、この今という瞬間だけを取り上げるのではなくて、繋がりの中の命を自覚する。自分が死ぬことによって自分を通じで未来に続くであろう命まで殺してしまうわけであります。自分が死ぬことで自分の繋がりの中のたくさんの人を悲しませることになる。孤立しない命を生きるという中で、自分の命の繋がりを考えていく事が極めて大事なのではないかと思います。
人間は寂しがり屋ですから、孤立をしすぎると死にたくなってしまいます。孤立しない、繋がりに本質があるということに気づくこと、気づかせることが大事なのではないかと思います。冒頭で紹介しました友人達の死も、いまの私の生に繋がっていると私は思っています。
3番目。最初の修験道の説明で修験道はグローカルな宗教というお話をしました(*本稿では省いています)。グローバル化された欧米の価値観でものをみるだけではなく、やはり日本的な接し方、一神教の価値観にはない、自然の中で生かされている、そういう価値観が必要なのではないかという話をしましたが、この学会におかれましても、きっと元になるものは欧米的な手法がメインだと思います。
しかし、日本的な和の精神であるとか、宗教観であるとか、さらに繋がりの中で生きるとか、そういうような風土の中で育ってきた人に対する、日本的なグローカルな予防の対処法、予防の有り様があるのではないかと思っています。
修験道がグローカルの宗教であるのと同じように、日本で行われるあらゆる事は、グローカルなものを極めていくことが、日本にとってのあらたな意味を成しえると私は確信しており、それを最後の提言とさせていただきたいと思います。(了)
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最後まで読んで頂いてありがとうございました。長くてすいません。これでも修験道の説明の所ははしょりました。ご意見をいただければと幸いです。
また、もし全文を読みたい方にはPDFでお送り致しますので、直接、メールをいただければと存じます。
*写真は講演をさせていただいた学会当日のリーフレットです。「生と死…修験道に学ぶ」(終)
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