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「生と死・・・修験道に学ぶ」②

「生と死…修験道に学ぶ」②
昨日アップした日本自殺予防学会講演録の続き②です。

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□修験道に学ぶ

修験道が今も続けてきたことの中に、今回の学会のテーマと関連する学び、教えがあるということで、それをこれから3つの視点から紹介いたします。

1つ目です。我々の山修行は「擬死再生の修行」ということを申します。一度死を体験して生まれ変わる。山の行、とくに大峯奥駈修行などでは1日12時間ぐらい歩きます。本当にくたくたになります。それを8日間ぐらい歩き続ける。まさに死を覚悟するような修行の日々を送る中で、一度死んで生まれ変わる実感を持つのが修験の行なのです。

この行に白装束で入るというのも、いわゆる「死に装束」を象っています。行の中で、一度死ぬような思いをするのです。あるいは行場には、胎内くぐりという、狭いクレパスのようなところから潜って出てくるという場所もあります。死ぬような修行をした後、母の胎内から生まれ変わって出てくると言う、まさに擬死再生を体感する儀礼まで用意されているのです。これが修験修行の意味なのですが、考えて見ると人間というのはもともと数年で全ての組織が生まれ変わると言われております。 

(お医者様たちの前で披瀝するのは憚られますが‥)細胞単位で言うと、皮膚は28日、胃腸は40日、血液は127日、骨は200日。肝臓腎臓は200日で生まれ変わるそうです。厳密に言えば全部ではなくて、心臓とか組織が生まれ変わらないものもあるので、全てが生まれ変わるわけではないのですが、ほぼ、何年か前の自分と今とは、組織上では違っているというのが、まあ科学的にいわれるところです。

しかしながら、それは自分の体で生に実感できるものでありません。今年の右足は一昨年の右足と生まれ変わって良いなと、いうようなことはないわけで、逆に老化するのを実感するわけです。ところが、山の擬死再生‥山で一度死んで生まれ変わるというのは、再生の実感があります。

例えば50人から100人ほどを山に連れて入りますが、だいたいおいでになった時は参加のみなさんの顔がぼうっとしています。あるいは、ちょっと病んでいるような人もいるわけです。それが山に入れて3日とか1週間修行して、終えて降りてくると、みんながたいへん良い顔になっているのです。目つき顔つきが変わって、生まれ変わったなという、見た目にわかるのです。

本人もそれまでの自分が、山での苦しい苦しい修行を経て新たに生まれ変わったいう実感があるのです。それは、生きているという実感でもあります。ここが大事なのです。生きている事というのは、生きている間はずっと動いていますから、よくわからない。物事は動いている時にはあまり実態は分からない。止まらないと、動いている時のことが理解できないものです。だから生きている間は動いていますから、生きていることが実は自分ではよくわからないのです。

どうしたらいいかというと、死ぬと止まるから、生きていることが分かる。ところが死んでからわかったのでは実は遅い。「生」の鏡は「死」であると言いますが、動いている間は分からない、止まらないと分からない。でも止まってからわかったのでは死んでいるわけで遅いですから、普段から「生」の実感を持つということが極めて大事なのですが、なかなか生の、あるいは命の実感っていうのはわかりにくいものです。

そんな中で山の擬死再生の修行というのは、生きながらにして自分の死を覚悟したり、あるいは自分の生に気付いたり、そういう装置、そう言ってしまうと少し語弊がありますが、山修行にはそういう力があると、私は思っております。そういう教えが修験道の修行の中にはあるのです。生きる苦しさや、生まれ変わる苦しさを体験することと言えるかもしれません。

2番目。「死に習う」という修験の教えがございます。どういうことかというと、毎日の生活の中で常に自分の死を意識する。さきほどの「動いている間はなかなか止まった状態のことがわからない」という話をしましたが、だからこそ自分が生きてる今、自分の死を意識する、死を意識して生きるというのを、「死に習う」という言葉で教えています。

山の修行では擬死再生という、死を意識し、生を意識するのですが、それは山の中だけではなくて、普段の生活の中でも、自分の生、自分の死を意識しましょう、ということです。修験ではさらに「山の行より里の行」という教えがあります。山で得た修行の力、これは素晴らしいけれども、それを里で活かすのがもっと大事なのだと教えています。

もっと言うと山で得た修行の力は大変素晴らしいけれども、実は毎日の生活の中の修行が肝心なのだということです。「死に習う」というのも、山の中で、擬死再生ー死を意識するような経験をするけれども、それよりさらに毎日の生活の中で自分の死を意識して生きることが大事なのだと教えているのです。そういう意味では、現代というのは生きる「生」への意識、あるいは「死」への意識が大きく隔絶した社会かもしれません。

一つは、大自然の中で修行しますと、大自然の厳しい環境の中から、自分らが生きている、生かされているということを体感し、自分の生とか死についても実感するものがあるのですが、現代の我々の生活というのは、そういった自然の摂理の中で生きるという関係性がややもすると阻害されているように感じます。具体的に言いますと、生と死の事については、例えば、ウチの弟は、私の家で生まれました。私が9歳の時に彼は「おぎゃー」といって生まれたのです。お産婆さんの手伝いで自宅で母は出産しました。赤ちゃんは、昔は皆、家で生まれたのです。そして家で死にました。私が生まれた時には祖父も祖母も亡くなっていたのですが、隣のおばあちゃんは隣の自宅で死にました。生も死も普段生きている中で目の当たりにする機会が少し前までは、皆あったのです。

今の子供達、うちの息子や娘は、死や生を病院でしか経験していません。うっかりすると、病院にも駆けつけなかったりするわけですから、生や死がリアルなものとして映らない時代を生きていると言っていいでしょう。生は死は自然の摂理ですが、そういう生や死自体から隔絶している社会の中で生きていると、死に習う、生を意識するというのはなかなか難しいことだと思います。生かされている命との向き合い、と書きましたが、こういう社会では、自分の生、自分の死についてさえ実感が欠けるわけで、どうしても命の軽視、生への尊厳を失うのではないかと思います。山伏の教えで「死に習う」というのは、そういう毎日の中に自分の死を意識して、一日をしっかりと生きましょうという導きでもあるわけです。

(以下次回へ)

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*写真は擬死再生の修行・・・山上ヶ岳表の行場「西の覗き」

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