「子供の有難み」『修験道あるがままに』シリーズがついに完結です。
「子供の有難み」
今、私の傍らで我が子が戯(たわむ)れている。原稿が仕上がらず、ねじり鉢巻で苦しむ父の心を知ってか知らずか、ただ無邪気に独り遊びに興じている。可愛いものだとつくづく思う。親であることの有難みを感じるのは、こんなたわいない一時であるのかもしれない。
おれはおまえの親なんだぞ、と偉そうに言っても、子供が居てこその親である。親の有難みというが、子供の有難みというのもあるはずである。わが娘を抱いてみて知ったのは、親の有難みだけでなく、子供を持つ有難みもあることであった。
子育てというが、なにも親が子を育てるばかりでなく、子供によって親自身が育てられているのかも知れない。夜中に熱を出したり、階段からころがり落ちたり、プラスチックを飲みこんだり、この数年の間、いろんなことが起きたけれど、その都度、右往左往して、少しずつ親として成長させられてきた。まさに子供が居てこその、お蔭である。
私は親として、そう大した出来ではないだろう。自分の感情のままに子供を叱ったり、子供相手にムキになったり、全く大人気(おとなげ)ない。子供にとって、こんな親を持つのは災難のようなものかもしれない。
いつかこの稿で、子供は神仏からの授かりものであると書いたことがあるが、その想いは今も変わらないにしても、現実にはついついわがままが出るのである。そしてそんな不出来な親だからこそ、時に子供の有難みに思いを至しているのである。
年末に二人目の子供が生まれる予定である。次は男の子が欲しい、と思う気持ちもあるが、そうかといって、願を掛けるとか、男の子を作るための努力とかは何事もなさなかった。男でも女でもよい、自然のまま、神仏におまかせするのみである。まだまだ半人前の親であるが、子供とともに少しずつでも成長していきたいと思っている。それが我が子への責任であり、私自身が自分の両親から受けた恩に対する責任であろう。
ところで、こういうことを感じられるのも、自分自身が神仏の深い加護の元にあるからに他ならないだろう。子の有難み、親の有難み、そして神仏の有難みに、改めて感謝申し上げたい。
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この文章はもう30年近く前に書いたものである。ここに書いている我が子は31歳になったし、生まれてくると書いた子供も、この6月で金峯山寺の学僧生活を無事終え、いまは非常勤で山内に勤めている。30年の月日を感じる。
でもまあ、内容は今でも通用するのではと思うのですけど・・・。とりわけ、日帰り温泉などに行って若い親子連れを見ると、つくづく、私も自分の子供達がいたから親という役目を体験させてもらえのだと、実感するのである。
で、なぜこんな古い文章を披瀝したかというと、4月から始めた私の処女作『吉野薫風抄』の電子化シリーズがようやく編集を終え、7月には最終編である『修験道あるがままに』シリーズ⑤として刊行されるので、早出しで、シリーズ⑤所収の16編の中の1編を紹介したのである。
本シリーズは
①=「信仰・信心について」
②=「山の修行、修験の世界」
③=「花の吉野と金峯山修験」
④=「山伏が世の中に問う」
⑤=「修験僧のひとりごと」
という5つのテーマで、原作の『吉野薫風抄』を内容に応じて、分割して電子化した。
⑤はその完結編である。
乞うご期待です。
シリーズ①のAmazonKindleサイト
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https://www.amazon.co.jp/dp/B07Q8TMG44/ref=sr_1_fkmr1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%88%A9%E5%85%B8%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%AB&qid=1554123452&s=gateway&sr=8-1-fkmr1&fbclid=IwAR3OkPCc5gD0hEgcc9f7XxWEu3Hlye_PUqNYszmtukegg_PgaFMbjEjnAg8
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