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「天狗と山伏」⑤

【天狗と山伏】⑤ 講師/金峯山寺長臈 田中利典

昨日からの続き・・・。今日のところはいつもの修験道の解説なので、読み慣れた方は飛ばしてもらってもよいかも。
第6回最終章はなぜ私が天狗の話をしたかのコアな部分ですので、この次はご期待下さい。


天狗のこと、ちゃんとお話ししたでしょ?JAXAでの講演・「宇宙飛行士と山伏」の時は、宇宙飛行士の話は全然していませんから、今日の「天狗と山伏」は特別です。で、ここからは山伏の話…。

開祖は役行者。今から1300年昔に、吉野の金峯山寺から南に24キロ参りますと、大峯山山上ケ岳という修験道の根本道場があります。ここで役行者は1000日の修行をされ、祈り出されたのが御本尊の金剛蔵王大権現様です。これをもって吉野修験では修験道自体の始まりとしておりますが、その修験道・山伏道とは何かと申しますと、まず第一は、山の宗教、山伏の宗教であるということ。山や大自然を道場に修行をする宗教です。少し映像を見て頂きます。
~奥駈映像~
これは我々が、吉野から熊野にかけて修行する大峯奥駈修行という修行の映像ですが、我々は年に何度か山の中に入って修行する。大自然が修行の道場である。しかも大自然を聖なるものの住まう場所として、祈りながら拝みながら歩く。そこには神仏との出会い、畏れとの出会いがある。そうすると、山には聖なるものもいますが、天狗みたいな存在もいるし、山伏自身が天狗のような存在になっていったというのもあろうかと思います。今、見て頂きましたが、山伏の衣装というのは天狗の衣装を着けているわけでございます。いや、天狗が山伏の衣装を着けている。まさに天狗としての山伏がそこにいると言えるのではないか。また天狗のような異界の力を得るというのも、修験道の修行による力といえます。

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次に修験道というのは実践の宗教であるということ。画像は大峯山山上ケ岳の西の覗きという断崖絶壁から吊るされる行。断崖絶壁から身を吊るされて体で覚えていく、滝に打たれたり、座禅もしたり、そういう実践の宗教が修験道です。ですから修験の話をする時はいつも言うのですが、いくらここで話をしても本当のところはなかなか伝わらない。実践しないと伝わらないのです。ちょっと山念仏をみなさんでやってみましょう。
~懺悔懺悔懺六根清浄 ♪
良くできました。行中、山坂道にさしかかりますと、必ず先方から懺悔懺悔六根清浄の声があります。それに気持ちと心と声を合わせてお唱えするうちに、一日10-12時間も歩くという辛い修行がいつの間にか達成出来ている。大峯の峻険な山々を登れている。そこには心が解放される世界がある。実践の宗教でないと味わえない世界なのです。これが山伏の修験道の世界。

もう一つ、神仏習合の宗教であるということ。先ほど、天狗が出てくるのは実は仏教と神道が出会って、神仏混合という山岳信仰の形の中で育まれたものが、山の神様を天狗として崇めるようになったという話をしましたが、日本人というのは神も仏も分け隔てなく尊んできたわけです。特に修験道は八百万の神も八万四千の法門から生ずる仏もお祀りしている。いや、私どもの御本尊の金剛蔵王権現という融合した尊像まで祈りだしてきた。我々のご本尊蔵王権現様は、お釈迦様、観音様、弥勒様が権化して、大峯の岩を割って出現されたという伝えですが、神と仏が融合した権現さまであります。これは吉野だけではなく、熊野は熊野三所権現、石鎚は石鎚権現、彦山は彦山権現、そして白山は白山妙理権現、羽黒山は羽黒権現などなど、日本中の霊山には権現の信仰があるのです。その権現の信仰と天狗の信仰というのは、重なるようにして広がっていったという事ができると思います。

さらにもう一つの特徴として修験道は優婆塞(うばそく)の宗教ということがあります。優婆塞というのは、四衆のひとつです。ししゅうというても、アップリケの刺繍ではなくて、四つの宗教者のカテゴリー(笑)。比丘(びく)比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)優婆夷(うばい)のことをいいます。出家した行者の事を比丘という、女の人が比丘尼ですね。それに対して在家のままで仏道を行ずる人の事を優婆塞、優婆夷といいますが、修験道を開いた役行者は生涯、優婆塞であった。我々は役行者を拝むときに、「おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか」とこのようにお唱えします。この優婆塞の役行者自体を天狗とする信仰も後々生まれてきます。つまり、山伏が天狗であるというようなイメージが長い年月の中で日本人の中で作りあげられてきたわけです。

修験の教えの中で大事な事は山で修行することなのですが、山で修行してそこで終わりではないのですね。山で修行してそのまま山に住み続けるとそれは山伏ではなくて、仙人とか神そのものになっていくわけで、山伏というのは山で修行した力を郷(さと)で活かす。つまり、優婆塞宗教、民衆の中で活かして行く宗教なのです。ですから、天狗信仰というのは山で生まれる信仰でありますが、民(たみ)の中にもさまざまな形で入ってきた。まさに山伏信仰の在り様が天狗の世界を作り上げてきたとも言えるのではないかと私は思っています。

ここでちょっと難しいことを言いますと、修験というのは「全国の7割以上を山が占める我が国において、人は古代より山は神仏やそれが今世界であると考え恐れを持って、仰ぎ見ている。そして、その世界に入るということは聖なるものに触れるという宗教意識を見出した入山であった」。もともと山というのは遠くから拝むものだったのですが、仏教が入ってきて、道教が入ってきて、山で修行する人が現れてくると、聖なるものに触れるために山に入っていく。そして、「そういう基層の部分に深くかかわるのが修験道であり、神仏混合の宗教観である。日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教道教陰陽道などが混淆して成立した我が国固有の民俗宗教が修験道である」ということができると思います。

ただそういう一般的な理解の修験道という、そんな完全な形のものは存在していなくて、いわゆる極めて日本的な、ちょっと難しい言葉でいうとグローカルな宗教が修験道だと私は思っています。これは天狗もグローカルだということ。

グローカルとはなんじゃらほいという事になりますが、グローバルという言葉があります。グローバルな宗教、これを世界三大宗教といいますが、それはキリスト教、イスラム教、仏教を指します。本当は仏教よりヒンドゥー教の方が圧倒的に教徒の数は多いのですが、ヒンドゥー教はインドでしか存在していなくて、ここであげた世界三大宗教は、世界的規模で広がった宗教という意味を指します。それがグローバルな宗教。

グローバルというのは一つの価値観が世界中に通用する、普遍的な広がりと持つものという欧米人が考えたことなのです。グローバルとかユニバーサルはそういうものが地球全体の普遍であるという考えもとに、世界的に発展したという意味なのですね。そのグローバルな宗教という三大宗教でいうなら、仏教はグローバルな宗教になるわけですが、それに対して神道は日本で生まれたローカルなもの。この国で生まれてこの国の人たちが大事に守ってきた信仰、信心なのです。これは日本土着のローカルな宗教です。

先ほどから述べてきました神仏習合というのはそのグローバルな仏教とローカルな神道とが重なり合ってでてきたものですから、グローバルとローカルが足されて生まれたいわゆる“グローカル”な信仰となります。このグローカルがこれから21世紀の中で大変な課題になるいわれていますが、そういう世界的なものと地方的なものが一体になって考えて行くのが大きなキーワードとして生まれてきています。

で、本題の天狗ですが、天狗は説明してきたようにもともと中国で生まれたものです。中国で生まれた文化というのは古代や中世においては、世界的な規模のある種グローバルな文化であったわけです。それが日本に入ってきてローカルなものと出会って、神仏習合のような、さまざまな文化を生み出してくることになりますが、天狗もまた、まさにグローカルな民衆信仰の中でいろいろな日本的発展で生まれてきたものだという事になるのではないかと私は思うわけです。

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