2007年1月23日 (火)

チベット旅行記=短いバージョン

 昨年6月、私は盟友の宗教学者正木晃氏らに同行して秘境の国チベットの仏教寺院を巡った。その旅行記は以前ブログでアップした。そしてその紀行文をもとに、昨年8月には2ヶ月にわたって仏教界の業界紙である「仏教タイムス」10190 Photo_9 Photo_10 で連載したが、以下はその短いバージョンのチベット見聞録である。

「主なきポタラ宮」
  チベットといってまず最初に思い浮かぶのは世界遺産「ポタラ宮殿」であろう。私の憧れの地でもある。私たちは空路北京からラサ市に入り、真っ先にこの地を訪れた。
 ラサ市の西の端に位置するポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城である。この国の古建築を代表する宮殿式建築群は、どこまでも青く、高く澄んだ空を背にして、思い描いたとおり、ラサの市内を睥睨してそびえ立っていた。
 「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味で、観音菩薩とは、その化身たるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は政治施設の白宮と宗教施設の紅宮に分かれ、紅宮が白宮に支えられるように、中央部分の8階以上の高層を占めている。
 1959年、主であるべきダライ・ラマ14世は、中国の、チベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けインドに亡命し、以後、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国の外からチベットの独立運動を展開されているのはつとに知られるところ。
 ただ、漢人たちのチベット流入を含め、中国政府が行っているこの国への介入を思うとき、ダライ・ラマ法王が法王として、二度とこの地にお戻りになることはないだろうなあと…漫然と思ったのであった。   

「主なきポタラ宮②」
 ダライ・ラマ法王のインド亡命以来、主なき城となったポタラ宮殿は、今は中国政府によって博物館とされてしまった。
 実際に目の当たりにしたのは、巡礼者たちを押しのけ、物見遊山の観光客に踏みにじられる観音菩薩の聖地・ポタラ宮だった。
 チベットは中華人民共和国の成立と共に、チベットの歴史と文化の二つながら、大中国に飲み込まれ、文化大革命によって、大きな大きな打撃を受け、ついにはチベット人民の独立すら奪われてしまった。そしてその精神的支柱のチベット仏教は極度に疲弊したのである。その象徴が主なきポタラ宮殿であり、博物館と化した聖庁なのだ。
 私は吉野修験に属する山伏であるが、翻ってわが修験道を考えるとき、このチベット仏教が歩んだ運命にある種の親近感を覚える。
 明治期、わが国は欧米化政策の一環として神仏分離を施策し、日本古来の宗教心の象徴である権現信仰の禁止と、修験道という宗教の廃止を断行する。この災禍によって権現信仰の法城であるわが吉野山・金峯山寺は、一時期廃寺とされるが、のちに復帰し、日本全土の修験寺院が廃絶される中、奇跡的にその法脈を保った。それは偏に当時の人々の信仰心に支えられた抵抗運動の賜物であった。
 ポタラ宮殿の存続は博物館としての継承では意味がない。宮殿内に祀られる歴代ダライ・ラマ法王の嘆きやいかばかりであろうか…。だからこそ、チベット人民の信仰心の継続に、いずれ迎える新たなよき時代を拓く鍵がある、そんな思いを持ったのである。
 宮殿内の豪華な陳列物に饗応する中国人観光客に罪はないが、その信仰なき、無節操な態度に忍びがたい不快感を覚えたのは私だけではないだろう。                     
 
「文化大革命とチベット国」
 周知の如く、第二次大戦後、中国の侵攻によって、チベットは大中国に併合される。そして漢人たちによるチベット移入はあたかも大波が小舟を飲み込むが如く、怒濤のように押し寄せていった。その道程の初期には、凄まじい文化大革命の破壊活動がチベット全土を襲う。中国本土でさえ、自国のあらゆる歴史・文化と文物を否定した文革の嵐である。まして異国のものなど、一顧だにされることなく、容赦ない打ち壊しが行われた。とりわけチベット人民の精神的支柱であった数多くの仏教寺院は大法難ともいえる破壊の標的とされたのである。
 近年、ようやく文革の災禍を顧みて、仏教寺院の復興に手がつけられつつある。とはいえ、デブン寺やガンデン寺、シガツェのシャル寺など、訪れた寺院のほとんどが未だにその往時の偉容を取り戻すことなく、凄まじい破壊の爪痕を残していた。それは単に建物の破壊だけではない。ダライ・ラマ14世をはじめ、文革の難を避け、高僧たちの多くが故国を捨て、亡命せざるを得ない状況を生み、チベット仏教という信仰自体が風前の灯火と化したのである。
 今回の訪問では幸いセラ寺のチャンバイワンジェー長老など今もチベット本土で中国政府の理不尽な弾圧にも負けることなく、活躍されている高僧たちとの邂逅を得ることができ、深い深い感銘を受けた。しかし多くの寺院で出会った覇気のない若い僧侶たちの面容には、ポタラ宮同様に、文革の大いなる爪痕を感じさせる悲哀もあった。その中でせめてもの救いと思えたのは、参観中、至る所で目撃した真摯な巡礼者たちの祈りの姿だった。
 中国はいよいよチベット侵攻を進めている。鉄道の開通も目の前である。更に多くの漢人たちが移入してくるに違いない。私はこの国とこの国の人民を憂い、しばし立ちつくしていた。

「チベット仏教と夥しい仏」
 インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに流伝した。インド仏教は開祖の釈尊以来、発展と変容を生むが、中国や日本に伝わったものは実は中期密教までの段階のもので、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。その意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。
 加えて、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも大きな意味を見出す。
 もちろん中国侵攻以降、チベット仏教は苦難の道を余儀なくされるが、行く先々で五体倒地の巡礼を続ける多くの人々を見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰は未だ厳然として生きていることを実感した。
 ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムなど、異次元的で、そして甘美な世界を印象づけている。しかし実際に私が接したチベットの高僧や民衆の信仰はというと、そういう感じは極めて希薄であった。
 唯一、ギャンツェで参観した白居寺大塔に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。
 それにしてもなんと夥しい数のマンダラや仏たちだろう。白居寺に限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大な量のマンダラと仏たちに遭遇した。そこにはチベット民衆の生きた証と、来世への大いなる願いが込められていた。
 同じ仏教国とはいえ、気候と風土、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。

「白居寺の感動」①
 今回のチベット巡礼で一番感動したのはギャンツェの街で訪れたパルコン・チューデ(白居寺)だった。白居寺は15世紀初頭の創建で、当初はサキャ派の寺院だったが、その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺として存続している。この寺で有名なのがクンブム。俗に八角塔と呼ばれる白い仏塔は十三層からなり、その高さは34メートル、基壇の一辺は52メートルに及ぶチベット最大の仏塔だ。クンブムとは百万の意味で、十三層の建物の壁には百万の仏像が描かれているという。同行の正木先生から「チベット仏教最高峰の仏画群です」と説明を受けたが、本当に素晴らしい壁画群であった。
 その白居寺でまずはじめに感動したのは境内一杯にあふれる巡礼者たちだった。本堂前で五体倒地をする人、五体倒地をしながら境内を巡礼している人。ラサのジュカンでもたくさんの五体倒地者を見たが、ここではその数が数倍だ。そしてチベット第一の都市ラサを上回る巡礼者の熱気なのだ。いや、ギャンツェという田舎街だからこそ、中国ナイズされる以前の純朴なチベットが、ラサより遙かにここには息づいているという印象だったのである。
 本堂に参観し、巡礼者が額づく御本尊御宝前で錫杖を振りながら声明と般若心経の勤行を行う。チベット滞在中は訪問した各寺院で団員一同が一緒になってお勤めをさせていただいたが、この時の勤行ほど、唱えながら感激したことはなかった。遠く日本からなにか深い導きを得て、ここギャンツェで、この勤行の瞬間を迎えているっていう、天啓のような感動を覚えたのだった。

「白居寺の感動」②
 本堂参観に続いていよいよクンブム大塔へ向かう。「チベット密教中、最も優れた壁画群」が残る期待の場所である。
 ところが大塔前で、私と同行の一人が巡礼者たちに取り囲まれてしまった。「あの二人は日本のお上人さまだ」と噂が立ち、次々とお加持を求める群衆が集まってきたのである。私たちが法衣姿で参観していたことが原因であろう。そのお加持をする姿を見て、次々と他の人も列を作り出した。うわー、えらいことになったなあと思いつつ、群衆に乞われるまま二百人以上はお加持をしただろうか。何度も何度もお加持を願う人もいる。油でこてこてに固まった髪の毛ごしにひとりひとりお数珠でさすってあげるのだが、いよいよ際限がなくなってきた。逃げようと、同行者を引っ張って、ついに這々の体で逃げ出したのであった。お上人様でもない私たちにはあれが限界だった。
 なんとかクンブムに入る。ここは一階から右回りに仏画や仏像を拝みながら登るのだが、その道程は悟りへの過程になるように造られている。聞きしにまさる素晴らしい仏像、仏画群だ。上に上がるほど悟りへの過程を昇るというのは、仏教の発展過程をなぞることでもあり、最上階には待ちわびた後期密教の無上瑜伽タントラ群が待っていたのである。この夥しいかぎりの合体仏、秘密マンダラ群を見たとき、私の思い描いたチベット密教の最奥にようやくたどり着いた気がしたのである。
 素朴で真摯な巡礼者たちに取り囲まれ、そして夥しいマンダラ画や仏たちに包み込まれ、これこそチベット仏教だ、というパルコン・チューデ感激のひとときであった。

  「チベット高原について」
 もう二十年ほど前になるだろうか、私はシルクロードの各地を訪れたことがある。新彊ウイグル自治区のウルムチ・トルファン・敦煌など…ゴビタンに広がる漠々たる褐色の大地がそこにはあった。大ざっぱに言うと、チベット高原は崑崙山脈をはさんで、その新彊ウイグル自治区の南側に位置する。にわか勉強で仕入れた知識であるが、ある種、チベットもシルクロード各地の延長線上だというイメージを持っていた。
 ところがラサからバスで約7時間ほど要して訪れたギャンツェの街は標高4000㍍を越えるというのに、大麦と菜の花の穀倉地帯が平地一面に広がる肥沃の地であった。もちろん日本などの低地の肥沃地とは比べものにならない収穫性の低い穀物群ではあるが、ギャンツェ平野を取り囲む5000㍍級の山々が、どれも無骨にして無愛想な峻厳な岩山ばかりであるだけに、緑と黄色に彩られた大地はあたかも天国の情景にすら感じられる目に優しい佇まいであった。
 シルクロードのゴビタンには「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もなし」と法顕三蔵が嘆いた不毛の大地が延々と続いていた。しかしチベット高原には人の営みと自然の恩恵がつましく広がっていたのである。そんな大地に立ち、自然との共生とは、人間のつましさの上に成り立つ世界なのかもしれない…などと思ったりした。
 それにしても空気の希薄なこの高原地帯にチベット人は並々なる努力を以て、日々を生きるためのささやかな農耕生活と、世界に希有なる仏教文化を展開させてきたのである。それは私にとって驚愕の情景であった。

「高山病について」
 もう20年近く前、富士山に登ったことがある。たしか7合目か8合目の山小屋で一泊し翌朝登頂した。朧気な記憶だが、蟻の行列のような登山者が続く中、前を行く人の背中ばかりを見て登ったが、道端には簡易の酸素ボンベで吸飲しながら、はあはあと喘いでいる多くの人がいた。高山病に苦しむ人たちである。しかし私はあのとき、さして高山での苦しみを味わったという覚えがない。
 今回チベット高原に行くについて、再三にわたり、事前に、高山病の怖さと注意事項を指摘されていた。人によっては死亡した例もあるという。私自身は富士山での記憶から、どこかで自信を持ちつつ、どこかではここ10数年の不摂生を顧みて、不安な気持ちを抱いていた。
 今回の旅の添乗員を務めていただいた貫田宗男氏は日本では知る人ぞ知る登山家。またチベット訪問11回という正木先生はチベットの達人。そのお二人のダブルタッグで指導願ったのだから、おかげさまで高山病対策は万全の旅行だった。特に貫田さん持参の血液中の酸素濃度をはかる小さなインジケーター(正式名称は動脈血中酸素飽和濃度測定計)は団員の体調管理に物凄い威力を発揮していた。そのお陰もあって、幸い、ホントに幸いにして私はチベット滞在中、高山反応らしき反応もなく、ラサ1日目に少し頭がボーとした程度だった。
 しかし同行者で肺水腫寸前に陥り、あの達人の貫田さんを慌てさせるという事態もおき、万全を期したにもかかわらず、波瀾万丈の10日間となった。
 やはり平均高度3700㍍を侮ってはいけない。チベットは低地民族の日本人にはとても怖い国なのだ。

「旅の終わりに…」
 旅に出ると私はいつも思う。旅先で多くの人々に出会うたびに「人間はなにかをして生きているんだなあ」と漠然と思うのである。人間はなにかをして生きている…至極当然のことなのだが、日常の生活を離れて、非日常の外国旅行へ行くと、そういう思いをいつも抱くのである。今回は秘境といわれる国だけに、今まで以上により強くそう思ったのだった。
 商売をしている人、畑を耕している人、食事の世話をしている人、巡礼をしている人、昼間から寝そべってる人、物乞いをしている人…千差万別に多くの人々がいた。
 考えれば「あんなことを達成した、こんなことも成し遂げた」といったところで、所詮私も、家庭と仕事を行き来しながら、なにかをして生きているだけの存在である。誰もが生まれた以上は死ぬまで、なにかをして、生きるのである。その生きる過程で成し遂げたことの価値など、大いなる宇宙の営みから見たら芥子粒にも満たないものである。それでも私たちはああだこうだと右往左往しているのだ。考えてみれば愚かな話である。
 仏教では「世間虚仮」という。「是真仏法」とも説く。チベットの大地にひれ伏し、仏教の教えのみを信じて生きているような人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていたのであった。柔和な仏像とおどろおどろしいマンダラ画の狭間で、生きることの複雑さや猥雑さを感じながら…。
 こうして私はチベット旅行を終えたのだった。

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2006年9月17日 (日)

チベット紀行 最終回

Photo_18 Photo_19 624_ ようやく今回で脱稿です。ご感想をお待ちしております。

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□2006.6.24

06:00,モーニングコール。07:00,朝食。朝からASがいよいよ調子が悪そうである。「白居寺で群衆にお加持をしたので、へんなものをもらったんじゃないか」と少々ちゃかしてみたが、反応が鈍い。かなりしんどいようだ。今回の参加者の内、私の関係者ばかりが体調を崩している。08:00,ゴンカル空港に向け出発。09:30、空港到着、いよいよこれでラサ・チベットとの別れである。名残惜しい。今日までお世話になったガイドのテンジンさんとドライバーさんともここでお別れである。ホント、お世話になりました。シガツェへ向かうバスの中で聞いたテンジンさんのハーモニカ演奏、嬉しかったです。懐かしい日本歌謡が秘境チベットの高山にとけ込んでいくあのひとときは忘れられない想い出になるでしょう。チベットの未来に栄光あれ!そんな思いを込めてテンジンさんたちと別れの握手を交わしたのだった。

思えば北京・成都を経て、18日のチベット入りして以来、心配した高山病にも陥らず、私は早めの高山順応を果たし、絶好調である。お陰で断酒もチベットダイエットも大失敗に終わったのであるが、元気に巡拝を果たすことが出来たことは有り難い一語に尽きる。ともかく私の「セブンデーズインチベット」はこの日で終わった。「チベット仏教とチベット人民に栄光あれ!」と今一度つぶやいて、私は成都へのエアバスに搭乗したのであった。11:00、いろんな思いと思い出を乗せたまま、私たちの搭乗便はゴンカル空港を離陸。目指すは成都である。そして明日には北京を経由して、ふるさと日本に帰ることになる…。

・・・・・吉野山人の「セブンデーズインチベット」はここで終了である。ここから25日の帰国までの行程はいわばおまけ。ま、思わせぶりに書いたASの容態のこともあるし、このあとのことも少しふれておきたい。私たちは成都で一泊する。チベット入りの前にも一泊した成都であるが、今回は時間もあり、成都の代表的観光名所・杜甫草堂や三国志の英雄・劉備玄徳廟、諸葛孔明陵(武公祠)などを参観した。兼ねて三国史・諸葛孔明大ファンを自認する私にとって、最後のお楽しみということだったが、あまりに殺風景で、いかにも観光地然とした武公祠には大いにがっかりさせられたことを報告しておく。ASはこの日の昼・夜も食事をぜんぜん取らず、断食を続けていたが、夜中に成都のホテルで急性腸閉塞をおこし、緊急入院する。彼が慢性の閉塞持ちだったことを私も忘れていて、大騒ぎとなった。翌25日は日本帰国の日であったが、医者の許可がなかなかおりず、開腹手術の一歩手前まで行き、帰国に赤信号が点灯したのであった。しかし看護士のHNさんや貫田さん、伊藤さんの懸命の看護もあって、25日午前中になんとか退院させ、団員達と一緒に帰ることが出来たのであった。正木先生はじめ、ホント多くの方々に多大の迷惑をおかけして、恥じ入るしかない旅の締めくくりとなった。

しかし、御本尊の大きなお計らいであろう。旅行中に襲ったAO事件やAS事件など様々な障害を乗り越えて、25日の午後8時過ぎには、全員が無事、成田空港に降り立ったのであった。深く深く感謝申し上げるものである。本当に有り難うございました。

「旅の終わりに~人間が生きるということ」

私は旅行に出るといつも思うことがある。旅先で出会う多くの人々をみていると、「人間はなにかをして生きているんだなあ」と漠然と思うのである。人間はなにかをして生きている…至極当然のことなのだが、日常の生活を離れて、非日常の外国旅行へ行くと、そういう思いがいつも私に迫ってくるのである。今回のチベット行きでもそうだった。秘境といわれる国だけに、今までよりよけい強くそういう思いを抱くことになった。

商売をしている人、畑を耕している人、食事の世話をしている人、巡礼をしている人、昼間から寝そべってる人、物乞いをしている人…千差万別に多くの人々に出会ったのである。
考えれば、「あんなことを達成した、こんなことも成し遂げた」といったところで、所詮私も、家庭と仕事を行き来しながら、なにかをして生きているだけの存在である。誰もが生まれた以上は死ぬまで、なにかをして、生きるだけのことなのである。

その生きる過程で成し遂げたことの価値など、大いなる宇宙の営みから見たら芥子粒にも満たないものである。それでも私たちはああだこうだと右往左往しているのだ。ホントに愚かな話である。

釈尊は世間虚仮と看破された。是真仏法とも説かれておられる。チベットの大地で這いずり廻りながら、仏教の教えのみを信じて生きている人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていたのであった。柔和な仏像とおどろおどろしい曼荼羅画の狭間で、生きることの複雑さや猥雑さを感じながら…。

□エピローグ

旅行を終えて、2ヶ月近くもかかってようやく書きあげることになった本編は、私の中では満足出来る内容とはとうてい言えないものである。もっと深い感動や、目の当たりにしたチベット仏教の息づかい、素晴らしい文物などについて、その百分の一も書き切れていないジレンマを感じている。チベット仏教の現状ももっと細やかに報告するつもりだったし、心に止まった風景や人々の生活も描ききれなかった。しかしながら、たとえその百分の一のものでも、こうやって書きとどめておかないともっともっと私の中で風化消滅していくに違いない。今は最後までめげずにかき上げたことだけでも由としたい気持ちである。

末尾ながら、そんな文章につき合わせた皆様には誠に申し訳ない思いでいっぱいである。最後まで読んで頂いて有り難うございました。正直、読んで頂いていると思う気持ちが、かき上げる原動力になりました。厚く御礼を申し上げます。

★おまけ
今回同様、大先達正木晃先生、総奉行貫田宗男コンビの第2弾ツアーが企画されています。来年3月21日から31日まで、ブータン王国を巡り、聖地ブムタンやラクツァン僧院を訪問、またブータン最大の仮面祭として名高いパロ・ツェチェ祭りも体験するという旅行です。是非、私も行きたいのですが、なにしろ年度末。宗議会の改選や、いろいろ宗務が繁多なときですから、今のところはどうなるかわかりません。但しブータンは事前に旅行予約がいるため、締切の時期が早く、一応、10月末締切となっています。詳しいリーフレットがありますので、メールにてお訪ね下さい。
是非一緒に行きましょう!っていいたいのですがねえ。まだ今のところ私自身は不確定なのです。ともかくお知らせだけさせていただきます。

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チベット紀行 9

□2006.6.23

07:00,起床。08:00,朝食。09:05,バスで出発。09:15,ノルブランカ到着。ここノルブランカはラサ市街の西の郊外にある観光名所。ノルブランカとはチベット語で「宝珠の林園」の意。ダライ・ラマ7世のときに造営され、のちに歴代のダライ・ラマの夏の宮殿となった。総面積36万平方メートルという広大な敷地には、灌木が生い茂る美しい庭園に幾つかの棟が点在している。そのうち、タクトゥミンギュル宮はダライ・ラマ14世が住んでいた建物で、謁見室、私室、瞑想室などがあり興味深かった。1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命するが、そのとき、ここノルブリンカから脱出したことは有名な逸話。10:45,ノルブランカを後に、チベット博物館へ。ラサはすでに4日目の観光である。当初の計画のラサ観光は大方は終わっているので、主だったところはもうあまりない。故に博物館もそう興味はわかなかった。とりわけ中国史観で、チベットの歴史が紹介される携帯解説器具の館内案内には違和感を覚えた。日本語版の案内があったことは驚きだったが…。博物館の土産物屋ではまたまたたくさん買ってしまった。見ると買うのだ。だめだなあ。12:00,博物館を出発。市内の百貨店でお茶の土産を買いたい人がいるというのでしばし寄り道。私?当然買いました。バスから降りなければ良かった。日本帰国後のカード請求が恐ろしいなぁ。

12:40,ホテル帰着。昼食を取る。美味しい中華も、日本から持参したインスタントのみそ汁もさすがにもうそろそろ厭きてきた。旅行も1週間を越えるといろいろ不満が出てくる。でもAOの入院事件といい、結構いろんな事件があった割には、団員全体は和やかである。みなさん、えらいなあ!14:25,またまた八角街のタンカ画店へ。また買い足してしまった。16:30,「良子足道」へ。三度めのご来店である。ともかく2時間半で1800円は全くやすい。今回は私と伊藤さんのほか、HNさん、HSさんの4人。
19:30,私たちの帰りが遅いので、団員全員がバスで迎えに来てくれた。食事の時間に間に合わないからという。申し訳ない。19:50,テンジンさんが「今夜は松茸料理ですよ」と、お昼間から予告されていた薬膳料理のお店に行く。松茸だけではなく、いろんなキノコがお鍋に出てきて、美味しかった。チベット料理や中華料理に厭きていた胃にはとても優しい薬膳鍋であった。食べ過ぎた。どうやら当初狙っていたチベットダイエットは失敗に終わりそうである。ラサ最後の晩餐。大変美味しゅうございました。

ふと気づくと、あのうるさいASが食事に来ていなかった。そういえば昨夜は一緒にお酒を飲んだけれど、朝から食があまり進んでいない様子だった。夕方以降、彼とは別行動でマッサージ屋さんに行き、食事にはバスの迎えが来たので、同室の彼はバスに乗っているモノと思っていたのだが、体調が悪く、食事は不参加だった。このことがこのあと第二の大事件に繋がるとは私自身思いもよらぬことであった。

21:40、ホテル帰着。ASは寝ていた。「食欲がわかないんです」という。そんな彼を部屋に置いたまま、ホテルのラウンジへ。伊藤さん以下いつものメンバーで、ラサ最後の夜をひととき楽しんだのであった。23:30、寝る。ASはいつもの元気がない。
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2006年9月14日 (木)

チベット紀行 7

Photo_9 Photo_10 Photo_11 約束通り、今日も続きをアップします。
今日のところは大部です。巡拝中一番感動したギャンツェの紹介ですので。

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□2006.6.21

7:30,起床。昨夜のブランデーがきいたのか、わずか3ハイ程度呑んだだけなのに、ボトル半分くらい空けたような目覚めである。少し二日酔いか。7:40,生活奉行の伊藤氏が少し青ざめた顔で来室。私の弟子、AOくんの容態が悪いとのこと。急遽、病院につれていく手配だという。彼のところへいくと顔色がすこぶる悪い。ただ本人は比較的元気でたんたんとしていた。不具合な身体を楽しんでいるようですらあった。その辺が普通の人とは違うところで、一言で言えば変な弟子である。しかし体内酸素の量が45の数値。通常90近い数値でないといけないのだから、これは極めて危険な状態で、このまま放置すれば1日2日で肺水腫を起こし、死亡するという。えーっていう感じである。高山病とはかくも恐ろしいものだと初めて実感する。どうもAOはラサ到着以降、ダイアモックスを服用していなかったらしい。夜中に頻繁に小用をもよおし、寝れないのが嫌だったから呑まなかったという。8:00、朝食。総奉行の貫田さんはAOの緊急入院の手配でバタバタしている。彼を病院につれていくため、ギャンツェ訪問の目玉である白居寺(パルコン・チューデ)は正木先生ひとりの案内となり、貫田さんとテンジンさんがAOに付き添ってくれるという。みなさんにとんだ迷惑をかけることになり、師僧としては恥じ入るばかりだ。本人は平然としてはいたが、病状は深刻で心配である。それにこんなところで死者が出たら大変なことになる。みなさんにお任せするしかない。

09:30,AOのことは心配ながら、予定通り、白居寺に向け出発。ホテルから約10分の距離である。白居寺は1418年の創建。当初はサキャ派の寺院であった。その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺になったという。この寺で有名なのがクンブム。俗に八角塔と呼ばれる白い仏塔は1427年に建立された。十三層からなり、その高さは34メートル、基壇の一辺は52メートルに及ぶ。わが蔵王堂より更に大きい。チベット最大の仏塔だ。正式名称のクンブムとは百万の意味で、十三層の建物の壁には百万の仏像が描かれているという。正木先生から「チベット仏教最高峰の仏画群です」と説明を受けたが、本当に素晴らしい壁画群であった。さて、白居寺に着いた私たちがまず感動したのは境内一杯にあふれる巡礼者たちだった。本堂前で五体倒地をする人、五体倒地をしながら境内を巡礼している人。ラサのジュカンでもたくさんの五体倒地者を見たが、ここではその数が数倍だ。そしてチベット第一の都市ラサを上回る巡礼者の熱気なのだ。いや、ギャンツェという田舎だからこそ、中国ナイズされる以前の純朴なチベットが、ラサより遙かにここには息づいているという印象だったのである。

本堂の参観前に白居寺執事長ノブサン・テンペー師と事務室で面談。この辺の特別扱いは正木先生同行ならではのことでみなが有り難い思いをする。執事長に日本から持参したお土産の朱扇などをお渡しする。室内にいた聾唖の少年が親しげに寄り添ってくる。口を加持してほしいというので、朱扇で仰いであげたらたいそう喜んでくれた。彼は両親を亡くし、この寺で世話になっているらしい。更にお加持に使った私の朱扇が欲しいというので、彼に貰って貰う。でも使い方わかるのかしらん。

10:00,執事長のご案内で本堂参観。彼の計らいで、巡礼者が額づく御本尊御宝前で声明と般若心経の勤行を行う。チベット滞在中は訪問した多くの寺院で勤行を行ったが、この時の勤行ほど、唱えながら感動したことはなかった。なにか遠く日本から深い導きを得て、ここギャンツェで、この勤行の瞬間を迎えているっていう、まるで天啓のような感覚を覚え、三礼・如来唄の声明を唱えさせていただいたのである。勤行後、僧籍の私とAZ、IS、MT氏それに正木先生の5人だけが、特別に御本尊への直接の礼拝を許された。巡礼者たちが羨望のまなざしを向けていた。

10:30,いよいよクンブム大塔へ向かう。冒頭に正木先生の解説にもあったように「チベット密教中、最も優れた仏教美術の壁画群」が残るという期待の場所である。ところが大塔前で、私とASが巡礼者たちに取り囲まれてしまった。実は同行のTMくんとSKくんが、「あの二人は日本のお上人さまだ」と巡礼者たちに吹聴したらしく、次々とお加持を求める群衆が集まってきたのである。私とASが法衣姿で参観していたことも原因である。そのお加持をする姿も見て、更に次々と他の人も列を作り出した。うわー、どうしよう、えらいことになっちゃったなあ。…と、ふと横を見ると、ASはご満悦で加持している。お上人さま然としているから可笑しい。「ややこしいやっちゃなあ…」と思いつつ、このままでは参観どころではなくなってしまうに違いない。ちょっとちょっと、待って下さいと、群衆に取り囲まれ、乞われるまま二百人以上はお加持をしただろうか?何度も何度もお加持を願う人もいる。油で固まった髪の毛ごしにひとりひとりお数珠でなでてあげるのだが、いよいよ際限がなくなってきた。「AS、私は先に塔に入るよ」っと、集まった巡礼者とASを残して、正木先生たちの後を追ったのだった。ともかく這々の体で逃げ出したのである。申し訳ないが、お上人でもない私ではあれ以上は無理である。TMくんとSKくん、あれは困るよ、ホント。

で、なんとかクンブムに入る。ここは一階から右回りに仏画や仏像を拝みながら登るのだそうで、その道程は悟りへの過程になるように造られている、と聞く。第一塔第一室から参観をはじめる。執事長がずっと付き添っていてくれるが、通訳のテンジンさんも貫田さんも病院行きで、話が通じない。正木先生の解説を聞きつつ、巡拝したのである。しかし聞きしにまさる素晴らしい仏像、仏画群であった。いちいちが素晴らしいので時間をかけていると最後まで行き着かなくなってしまう。「この塔で最も重要なのは最上階ですから、そちらに行きましょう」と正木先生が宣言して、2層目の中途から、一気に第10層階へ移動する。上に上がるほど悟りへの過程を昇ることになるということだが、それは仏教の発展過程をなぞることでもあり、最上階には後期密教のカーラチャクラや秘密集会、無上集会の曼荼羅群が待っていたのである。チベット密教のイメージというと、秘密集会や無上集会に代表される性に対する大肯定が先入観としてあり、男女合体の仏画が織りなす、甘美で悦楽の世界観を想像していた。ところが実際にチベットに行ってみて、そういう世界に触れることはどの寺を廻っても、どの僧侶からもあまりなかった。壁画群も少しはそういう後期密教的なものを参観したが、ああいう世界が全面に広がるような景色には出会っていなかっただけに、このクンブムでみた夥しいかぎりの多くの合体仏、秘密マンダラ群は、私の思い描いたチベット密教の最奥にようやく巡り会えた気がしたのである。素朴で真摯な巡礼者たちといい、夥しいマンダラ画や仏たちといい、これこそチベット仏教だ、というパルコン・チューデ感激のひとときだった。またこれだけのものがよく文革で破壊されなかったものだと、あらためてこの地の聖地性に思いを致した。蔵王権現の法城たるわが金峯山寺も明治期の修験道廃止の荒波を乗り越えて、その伽藍と法灯を守り続けてきたことを知るだけに、ここ白居寺の意義深さに多くの共感を抱いたのであった。このギャンツェの街、そして白居寺もろとも、是非、世界遺産に登録してもらいたいとも思った。保護保全のためにである。ただし、観光資源として見られるくらいなら、そっとこのままの佇まいを残した方がよいのかもしれないが…。

再び事務室に戻り、執事長と談話する。同行者それぞれにCDなどの参拝記念の品を頂戴した。聾唖の少年が待っていた。再度九字を切ってお加持する。きらきらと輝いていた純真な瞳が心に残った。後ろ髪を引かれる思いで、白居寺を辞したが、彼は今も元気でいるのだろうか。

AOの容態があまりかんばしくないようだと貫田さんが報告に戻ってきた。こうなるとギャンツェという田舎街(…といっても、ラサ、シガツェに次ぐチベット第三の町なのではあるのだが…)では医療の面で不安があるし、なにしろ海抜4040㍍の高地なのだから、少しでも低いところに降りた方がいい。当初、ギャンツェには2泊の予定をしていたが、仕方がない。ともかく今日の内にシガツェに戻ることとなった。ギャンツェは私も大変気に入っていただけに残念であった。

13:20、ホテル帰着。食事を済ませ、荷造りをする。15:30,ギャンツェ・ゾンへ向かう。ゾンとは城である。20世紀初頭、ヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベットに侵攻した際、ラサへの進路にギャンツェが当ったために、壮絶な戦いが行われたがその戦場がゾンである。約10分でバスはゾンに着いた。ガイドブックによるとゾンへは下から徒歩でいくと書いてあり、4000㍍級の高所だから、その登りは大変きついと聞いていた。しかし幸いなことにバスは頂上手前まで行ってくれるという。大変助かった。頂上まで登ると、午前中に参観した白居寺が眼下に広がっていた。また古い町並みをそのまま残したギャンツェの市街も一望の下に見ることができた。素晴らしい展望であった。

16:30,バスはAOの入院先へ向かう。その後幸い容態は回復基調にあり、シガツェへは一緒にバスで行けることになった。ほっとする。なんだか野戦病院に毛の生えたような心許ない病院を訪ね、退院手続きを済ませて、再びホテルへ。確かにAOも朝と比べて随分元気そうにしている。点滴などがかなりきいたようである。多くの人に迷惑を掛けたが、大事にいたらずに有り難かった。AO、感謝しろよ。17:10,荷物を積んだ後、全員を乗せたバスは一路シガツェを目指した。

18:50,シガツェに到着。シガツェはチベット第二の都市。ゲルク派の二大活仏の一人であるパンチェン・ラマの本拠地であるタシルンポ寺はここにある。ラサからは、西へ330キロに位置し、かつては、インドのシッキムやネパールとの交易の中継基地として栄えたが、現在は、インドとの国境問題の紛争などがあり交易は途絶え、往時ほどの姿はない。宿泊先となるシガツェホテルで食事を済ませる。弟子のISと二人でシガツェの街をしばし散策する。ギャンツェのような素朴さはなく、ラサと同じ、小中国化したけばいネオンばかりが目について、早々に退散した。AOの回復を祈るばかりである。22:30,就寝。

「チベット高原について」

もう随分前に、私はシルクロードの各地を訪ねた。新彊ウイグル自治区のウルムチ・トルファン・敦煌など…ゴビタンに広がる漠々たる褐色の大地がそこにはあった。大ざっぱに言うと、チベット高原は崑崙山脈をはさんで、新彊ウイグル自治区の南側に位置する。にわか勉強仕入れた知識であるが、ある種、シルクロード各地の延長線上というイメージがあった、

ところがラサからバスで約7時間ほど要して訪れたギャンツェの街は標高4000㍍を越えるというのに大麦と菜の花の穀倉地帯が平地一面に広がる肥沃の地であった。少なからず驚きを覚えたのである。もちろん低地の肥沃地とは比べものにならない収穫性の低い穀物には違いないが、ギャンツェ平野を取り囲む5000㍍級の山々がどれも峻厳な岩山ばかりであるだけに、緑と黄色に彩られた大地はあたかも天国の情景にすら感じられる人に優しい風景であった。シルクロードのゴビタンは「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もなし」という不毛の荒涼たる大地のみが延々と続いていたが、チベット高原には人の営みと自然の恩恵がつましく広がっていたのである。

自然との共生は、人間のつましさの上に成り立つ世界なのかもしれない。

それにしたも空気の希薄なこの高原地帯にチベット人は世界に希有なる仏教文化と人の営みを展開させてきたのである。それは私にとって驚愕の情景であった。

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2006年9月13日 (水)

チベット紀行 6

遅々として進まなかった旅行記ですが、ようやく、書き終えつつあります。今日からは毎日続けて最後までとぎれずに、アップ出来ると思います。…たぶん。。

どうぞよろしく。。

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「チベット仏教の印象」

インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに伝わり、今日まで生きている。

実はインド仏教は開祖の釈尊以来、大きく発展と変容を生むのであるが、中国や日本に伝わったものは中期密教までで、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。そういう意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。それとともに、もう一つ、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも620 Photo_7 Photo_8 大きな意味を見出す。

もちろん中国のチベット侵攻によってダライ・ラマ14世がインドに亡命し、以来、チベット仏教は苦難の道を歩き続けるが、八角街の巡礼者や多くの寺院で出会ったチベット人たちを見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰の生活は未だ厳然として生きているんだと実感させられたのであった。

ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムで代表されるような、異次元的で、また甘美な性的行為の肯定を連想させる超現実的な印象を与えている。ところが実際にチベットで接したチベット僧、それから民衆の信仰はというと、そういったタントラリズムを感じさせるものは希薄で、昨年訪れたスリランカ仏教とも共通する真摯な仏教信仰の姿であった。

唯一、この後、ギャンツェの街で訪れるパルコン・チューデ(白居寺)のクンムブ(百万塔)に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。

それにしてもなんと夥しいマンダラや仏たちだろう。パルコン・チューデに限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大なマンダラと仏たちに遭遇した。そこにはチベット民衆の生きることの証と、来世への大いなる願いが込められているのであろう。

同じ仏教国とはいえ、風景と気候、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。

□2006.6.20

06:00,モーニングコール。07:00,食事。8:05、バスにて出発。今日は一旦ラサを離れ、更にチベットの内陸部になるシガツェ、ギャンツェを目指す。当初の予定では、まずシガツェで1泊して参観し、ギャンツェで2泊。そしてシガツェに戻り、ラサへの帰路はカンパラ峠経由で、途中、トルコ石の湖として有名なヤムドク湖などの観光を企画していた。ところが肝心のカンパラ峠が道路工事のため大型車両の通行止めが続いていて使用出来ないとのこと。そこで行き帰りに同じ道を走るのも面白みがないので、シガツェーラサ間を5000㍍級の峠越えで行こうということになり、急遽、今日の内に、シガツェを経由して、ギャンツェまで行ってしまおうということになった。なにしろ、中国政府の資金投入によって爆裂的に道路などのインフラ整備が進んでいるとはいえ、秘境チベットのことである。この程度の予定変更は常識とのこと。ともかく、バスは一路、ギャンツェを目指して走り続けている。10:15、トゥ村という土地の通りかかったとき、道路の脇でお香の塊を作っているという場所に立ちより、見学。小型の簡易な水車を使って、無人で香木を削り、香を煉瓦にする作業をしていた。

道中、バスはチベット高原の深い渓谷を縫って走り続ける。秘境のことゆえ、そうとうの悪路を予想していたが、あにはからんや、今まで私の訪れたインドやシルクロート諸国、スリランカ各地と比べて格段に道路整備が進んでいて、舗装道路が延々と続いている。近年完成した道だという。異様とも思える中国のチベット進出の力の入れようをあらためて感じる。道路は素晴らしいが、しかし周りの風景は秘境チベットというべき荒涼とした山々が広がっている。11:40、バスを降りて2度目の小休止。切り立った深い谷の中央部を大きな川が流れているがその対岸にチベット古来の民俗宗教・ボン教の本山らしき伽藍群を望む。再びバスは走り続けている。

長い車中、テンジンさんが得意のハーモニカで、日本の歌を演奏してくれる。なかなかの芸達者である。13:10、シガツェ市内に到着。ラサからはるか330キロを来たことになる。こぢんまりとした町中の食堂で昼食。ラサほどではないが、チベット第二の都市というだけあって、かなりの都市である。今日はこの町は素通りで、引き続きバスに乗車してシガツェを目指す。

14:25 シガツェーギャンツェ間に位置するシャル寺を訪問。今日初めてにして唯一の参観地である。当寺は規模は小さいながら、サキャ派の名刹という。僧ジェツウンディンジャオジュンネによって1087年に創建された。…どうも私はチベット仏教に出てくる僧侶たちの名前が覚えにくい。何度聞いてもすぐ忘れてしまう。カタカナが苦手である。…14世紀にチベットに招請されたブトン・リンチェンドゥブは顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送り、この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかった。そのため彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがあるという。「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し、後世に大きな影響を与えているとガイドブックにあるが、実際にこの寺の境内に立つと、その名刹としての面影はほとんど感じられない。文革による荒廃ぶりが凄まじいのだ。シャル寺は美しい仏画群を蔵することでも知られるそうだが、正木先生が絶賛する壁画群も哀しいほど粗末な扱いを受けていて、痛ましい限りであった。国宝級と思われる画像たちはほとんど保護らしい保護もされずに打ち置かれているという感じ。管理する僧たちの資質も思わず首をかしげてしまう状況なのであった。「あのお坊さん達、この壁画の価値をわかっているんでしょうかね」と正木先生に尋ねたが、先生も黙って微笑されるだけだった。それもこれも文革が残した傷跡と言って間違いないだろう。

16:45、シャル寺出発。18:00,ようやくギャンツェに到着。ギャンツェホテルに入る。まる一日のバス移動であったが、やはりかなり疲れた。特にこのギャンツェは海抜4040㍍。高山順応はうまく行っているとはいえ、さすがに空気の薄さを体感する。ちょっとした階段の上り下りに、息が上がるのである。ゴンカル空港に着いた時と同じようになるべく動作を緩慢にして、心臓に負担をかけないようにする。20:00,少し遅めの食事となる。ギャンツェの料理は期待しないで下さいと聞いていたが、聞いていたとおり、今まででは一番口に合いにくかったかもしれない。

21:00,食事終了。伊藤さんの部屋で、正木先生を交え、明日以降の日程を検討する。ラサ到着以来、4日目を迎え、そろそろ体調を崩す人が出てきている。特にOR氏や最高齢者のMT氏など数人の様子が心配であり、あまり無理な行程は控えないといけない状況のようである。特に5000㍍級の峠越えは体調不良の人には大変負担が大きくなるから、無理しない方がよいのではないかということになった。ともかく明日の様子で判断しましょうということで話がまとまる。21:50、バーへ。結局毎日呑んでいる。ま、体調がよい証拠でもある。でも海抜4040㍍のブランデーはさすがに効いた。23:50、就寝。


「中国の文化大革命とチベット国」

1951年、中国はチベットに侵攻し、7世紀の吐蕃王国建国以来、規模の大小はあるにせよ堅持しつづけたチベット国の自治権は認められず、併合される。そしてその後、漢人たちのチベット移入はあたかも大波が小舟を飲み込むが如く、怒濤のように押し寄せていったのである。

その道程の初期に、凄まじい文化大革命の破壊活動がチベット全土を襲った。中国本土においてさえ、あらゆる歴史・文化と文物を否定しつづけた文革の嵐である。まして異国の文化や歴史など、一顧だにされることなく、容赦のない打ち壊しが行われたのである。とりわけチベット人民の精神的支柱であった多くの仏教寺院は大法難ともいえる破壊の的とされたのであった。

ここ10数年、ようやく文革の災禍を顧みて、仏教寺院の復興に手がつけられつつあるとはいえ、デブン寺やガンデン寺を筆頭に、シガツェのシャル寺など、訪れた寺院のほとんどが未だにその凄まじい破壊の爪痕を残していた。しかしそれは単に建物や境内地の破壊だけの問題ではない。ダライ・ラマ14世をはじめ、パンチェン・ラマ11世など文革の難を避けて、高僧たちの多くが故国を捨て、亡命せざるを得ない状況を生んで、チベット仏教の法灯は風前の灯火と化したのである。

今回の訪問では幸いセラ寺のチャンバイワンジェー長老やガンデン寺のニェンタク博士など今もチベット本土で中国政府の理不尽な弾圧にも負けることなく、仏道修行を続ける高僧たちとの邂逅を得たが、しかし多くの寺院で出会った若い僧侶たちの面容には、文革の大いなる爪痕を感じさせる悲哀があった。なにしろ厳格な戒律主義のセラ寺の本堂で、公衆の面前を前にトランプに興ずるような青年僧侶さえ、目撃したのである。修行者としての、威厳や尊厳を感じない僧達が、どの寺にもたくさん巣くっていたのであった。せめてもの救いがあるとするなら、八角街やこのあと訪問する白居寺など、多くの寺院で出会ったチベット人の巡礼者たちの真摯な信仰心だろう。

中国はいよいよチベット侵攻を進めている。漢人の溢れかえったラサの街…。街頭には漢人好みのけばいネオンが氾濫し、その片隅で肩身を狭くして暮らすチベット人達。

この国とこの国の人民を憂いてやまない。

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2006年8月24日 (木)

チベット紀行 5

Photo_5 619 Photo_6 □2006.6.19

06:00、モーニングコールで起きる。07:00、朝食へ。チベットに着いて3日目である。どうやら私は高山順応(高山馴化ともいう)がうまくいったようだ。もうほとんど空気の薄さや高地による体調の不加減は感じない。日本出発前、少し体調を崩していたので、実はかなり心配していたのだが、お陰様である。毎朝、貫田氏が全員の健康チェックをしてくれる。血液中の酸素濃度をはかる小さなインジケーターで、朝食の間、全員を周り、高度障害をおこしていないか調べてくれるのである。血中酸素濃度の数値で一目瞭然なのだという。私は連日、問題はありません、のお墨付きをいただいていた。この貫田氏、後でいろいろ話を聞く中で知るのだが、登山界では知る人ぞ知る有名人で、あのチョモランマの登頂も2度果たすなど、山登りの世界では知らない人はいないという。昨年、高野山大学を会場に、日本山岳会100周年記念の基調講演をお受けしたことがあるが、その時の依頼主で1992年に行われた日本・中国合同登山隊第二次遠征隊チョモランマ登頂隊の隊長を勤めた登山家・重廣恒夫さんとも親しく、貫田氏自身もその登頂隊に参加してるという。そんな達人がツアーコンダクターとして今回の巡礼行の総奉行を担っていてくれるのだから、心強い限りだ。同行者の中で7000㍍級の登山経験のあるというKRさんは昔から貫田さんの大ファンで憧れの人だったという。それくらい、その道では高名な人なのだ。そんな話を弟子のIZにすると、いや~、総長(私のこと)も修験道界では有名ですから…とお世辞を言われた。主宰者でチベットの達人兼宗教学者として新進気鋭の正木先生といい、「今回のツアーはものすごいメンバーばかりで、私幸せ!」って紅一点のHNさんが何度も言っていたが、彼女たちを誘って手前責任のある私にとっても嬉しいことである。

8:00、バス便乗。今日は昨日参観したデブン寺と並ぶゲルク派の三大寺院のひとつ、ガンデン寺へ向かう。ガンデン寺はラサから東に約40キロを行ったタクツェ近くの高山山頂に立つ大伽藍だ。ここはゲルク派三大寺院のなかでも、唯一ツォンカパ自身によって建てられた寺で、ゲルク派最初の寺でもある。

ガイドブックをたよりに少しゲルク派やツォンカパについて紹介しよう。ツォンカパ(1357-1419)はチベット仏教ゲルク派の創始者。中国青海省ツォンカの出身といい、チベット仏教の宗教改革者と位置づけられる高僧中の高僧。当時の堕落していた紅帽派(チベット仏教ニンマ派…紅教・古宗派)を批判し、それと区別をするために黄色い帽子をかぶった。そのためゲルク派を黄教、あるいは黄帽派という。11世紀のインドの学僧アティシャが唱えた、覚りに至る道筋を帰依、発菩提心、菩薩戒、般若行、密教の順にとらえ、すべての修行法やすべての哲学を一つの修行階梯のうちに統合する思想を元に、様々に分裂をしていた当時の宗派の教えを統合する哲学大系を打ち立てたチベット仏教史上、最高の理論家であり、チベット仏教が形成される過程で最も深い思想的影響を残したチベット人でもある。そのツォンカパが明の永楽7年(1409)に創建したのがここガンデン寺。ガンデンとは弥勒菩薩が住まいする地である兜率天の意。ガンデン寺が完成しツォンカパがここに移ってから、ツォンカパの率いる僧団は「ガンデン山の流儀」あるいは「徳行山の流儀」と称され、その略称として「ゲルク派」の名が広まったという。1419年、ガンデン寺が完成して2年後、ツォンカパはこの地で没する。彼の遺骨を納めた銀の霊塔が建てられ、今も彼はこの地に眠っている。ダライ・ラマが亡命するきっかけとなった1959年の中国解放軍侵攻によってガンデン寺は壊滅的な破壊を受けたが、近年ようやく修復がされつつある。

9:20,ガンデン寺へと続くつづら折りの山坂道をバスは砂埃を立てながら登り続けているが、ようやく見えてきたガンデン寺の遠望を前に小休止する。野原には野生?のヤクがいた。9:50,ガンデン寺に到着。海抜4300㍍というこんな高山に営まれたというのが不思議なくらい、壮大な大伽藍群である。もちろん文革によって徹底的に破壊された寺院であるため、その破壊の爪痕をそこかしこに感じるが、それでもゲルク派を代表する寺院としての偉容は取り戻しつつあるようだ。ツォンカパの霊廟に参る。ここでの勤行では天台声明も唱えさせて頂き、同行者全員で般若心経をお唱えしたが、とてもよい気持ちにさせていただいた(写真1)。勤行を終えると、ガンデン寺の住持僧で、38歳にしてゲルク派の最高学位をおさめたというニェンタク・ゲシェー(博士)師との面会が叶う。ニェンタク師は以前から正木先生が懇意にしておられる高僧で、先生曰く、今のチベットではとびっきりの傑物であり、傑物であるがゆえに中国政府からの干渉も厳しく、先生も今回の旅行で、逢えるかどうか心配されていたという。実際にお出会いしてみて、噂に違わぬ、とても聡明で、かつ大変大らかな勝れた人物だということが直感された。正直にいうと、初日のドルジェデン寺や昨日のデプン寺などの参観を通じて幾人かのチベット僧にお出会いしたが、今ひとつ、生気のない印象だった。ガンデン寺復興を推進するに相応しい特別な高僧と私たちはお出会いさせていただいたのである。全員、正木先生のお計らいで、ニェンタク師の個室に招かれ、お茶を頂きながら、しばしの歓談をさせていただく。私は日本から持参した朱扇に、厚かましくも自筆で揮毫し、最多角(イラタカ…修験独特の数珠)念珠などささやかなプレゼントをさせていただいたが、あとで思うとなんだか大それたことをしてきたようで、気恥ずかしい。

12:10、ガンデン寺を出発。一旦ホテルに戻り、昼食後、セラ寺へ向かう。当初の計画では、昨日セラ寺への参観予定だったのだが、セラ寺で有名な「論議」が日曜日には行われていないということで、今日の参観となった。14:50.セラ寺着。論議は15時からだという。すでに論議場となるセラ寺境内の中央広場の周辺は欧米人など多くの観光客が陣取って、論議開始を待っていた。

さてセラ寺である。今回のラサでの参観で、私にとってはポタラ宮殿と並ぶ大きな目的がこのセラ寺訪問であった。セラ寺(色拉寺)はラサの市街を北に5キロ行った山麓に位置する。すでに参観を終えたデプン寺、ガンデン寺と並ぶゲルク派の三大寺院。三つの中では最もラサ市内に近い。創建は1419年。ツォンカパの高弟であるシャキャイェーシェー(1352~1435)による。デブン寺同様にゲルク派の学問寺であり、多くの高僧を輩出してきた。特に、日本人であることを隠し鎖国時代のチベットに仏法を求めて潜入した河口慧海や多田等観がこの寺に滞在をしてチベット仏教を学んだことで知られ、私たち日本人にとっても深い縁を感じる憧れの地である。さて、そのセラ寺筆頭の長老チャンバイ・ワンジェイ氏に拝謁できるという。正木先生とは長年に亘る交遊があり、特別な計らいを受けたのである。論議の開始を待つ同行者には中庭で待っていただいて、正木先生に同伴して私と伊藤さん、貫田さん、テンジンさん、そして私の侍者のようにしてなぜか着いてきたAZ氏の5人だけで長老の個室を訪れた。御年80歳を超えておられるワンジェイ長老だが、御年以上に壮健で、とても親しく私たちを迎えていただいた(写真2)。正木先生も4年ぶりの再会だということでお互いとても懐かしく歓談されていた。正木先生によれば文化大革命に際し、長老も長く中国政府に監禁され、拷問で片目片足を失ったという激烈な経歴の持ち主で、チベット僧の中でも高僧中の高僧だと紹介された。穏やかで慈愛に満ちた今の容貌からは想像出来ない苦難の時代を生き抜かれた方なのである。セラ寺参観後に、再度全員を伴って訪れるお許しを得て、一旦、みなの待つ中庭に戻る。すでに論議は佳境に入っていた。といってもチベット語であるから、話の内容はわからない。ただ中庭全体に80名余りの若い僧たちが、2人一組になって大声をあげ行っていた論議の様子は壮大なものだった(写真3)。ただ見ようによっては、周りを多くの観光客が取り囲み、ちょっと見せ物っぽくなっていたのが残念でもある。本堂で勤行。艱難辛苦を乗り越えてこの地に留学した河口和尚を思うと、般若心経の途中で感極まるものがあった。まさにチベットの直中に今私はいるのである。

再びワンジェイ長老の元へ。今度は同行者全員が招じ入れられた。ガンデン寺のニェンタク師の個室でも感じたことであるが、これだけの大寺院の住持僧であるのに、個室と言っても調度品もほとんどなく、本当に質素な生活をされている。日本の僧侶とは随分違う境遇である。無所得を徹底されている生きざまには私たちも大いに学ぶべきものを感じる。ワンジェイ長老と親しくお話しをさせていただいた後、ひとりひとり直接今回の訪問の祝福を受け、同行者全員大感激の拝謁となった。

ところで高僧達との出会いは本当に有り難いご縁であったが、セラ寺ではいやなものも見てしまった。なんとこともあろうに本堂内の僧堂で、若い僧侶達がトランプに興じていたのである。破戒僧を自認し、生臭坊主を自覚している私がとやかくいえる立場ではないが、少なくとも、例えば蔵王堂内で、参観者を前に、そういったことはありえない。チベット仏教は戒律が厳しいと聞いていただけに、文革以後、復興しつつあるというチベット仏教に内在する問題の一部分を垣間見たような気がした。勝れた高僧たちとの出会いを経験した直後の出来事だっただけに、より大きな衝撃を受けたのである。

16:30,セラ寺の参観を終え、ジョカンに到着。ジョカン(大昭寺)はラサの中心街に位置し、チベット仏教で最も聖なる寺院とされる。チベット全土はいうにおよばずチベット以外の地、四川や青海、内蒙古からラサを目指す何千何万の巡礼者の多くは、ここジョカンに向かって集まってくるのである。学問寺のデプン寺やセラ寺にはない、庶民信仰の聖地を感じさせるお寺であり、門前では、多くの巡礼が五体投地を繰り返していた。また寺域周辺にはヤクの乳で作るバター灯明が燃える動物質の匂いが充満し、いかにもチベットらしい雰囲気が漂う場所でもあった。ジョカンの創建は7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ王治世に遡る。王は権勢を振るい、ネパールよりティツゥン妃を、唐より文成公主を妻に迎えたが、それぞれの妃がインド仏教と中国仏教をチベットにもたらした。ジョカンはそのティツゥン妃によって建立された寺である。本尊はなぜか文成公主が嫁入りの道具として持参したといわれる釈迦牟尼像が祀られている。ここも巡礼者に交じって、漢人の観光客でごった返していた。本堂御宝前では、行き交う参拝客の合間を縫って、同行者全員で勤行する。勤行後、堂内の役僧さんのご案内で、特別に内陣に参拝。いぶかしげに見守る他の参詣者を尻目に、直接ご本尊像に額づかせていただいた。

17:40、ジョカン門前に広がるパルコル(八角街)へ。ジョカンの本殿はひとつの巡礼路になっていて、巡礼たちは、本殿のなかを右回りに右回りに巡礼するが、これに対してパルコンは、ジョカンを外周する巡礼路である(更に市街全体を一周するリンゴルという巡礼の路もある)。巡礼の人々は手にマニ車をまわしながら、口に「オムマニベメフム、 オムマニベメフム」と唱え、パルコルを巡礼していた。話に聞いていたほど、五体投地で廻る人の姿はあまり見かけなかった。昨日、正木先生と訪れたタンカ画専門店もこのパルコンの一角にある。体調の勝れないMT氏などホテル帰着組と別れ、私たちは再びタンカ画専門店を訪れ、パルコル周辺に軒を並べる露天のお店でお土産を買う。勢いで、つい、マニ車や金剛鈴を買ってしまった。使わないだろうなぁ。

18:00,ホテル帰着。ラサは到着してから連日の好天で、暑い日々が続いている。持参した冬服を奥にしまいこみ、数少ない夏服をとっかえひっかえ着ているが、それにしても暑い。湿気がない分、あまり汗をかかないし、汚れないのが救いである。19:00、ホテル内のレストランでチベットの民俗演劇を鑑賞しながら食事をする。意趣を凝らした演出は大変興味深いものであった。食事後、伊藤さんと同行して、「良子足道」というマッサージ店に行く。伊藤さんは昨日も来たらしい。約2時間半、全身と足底のマッサージをしてもらい支払いはなんと120元。日本円で1800円くらいである。破格に安い。日本なら15分くらいしか揉んでもらえない値段である。

23:30、思い切ってたまっていた衣服を洗濯し、干し終えるともう時計の針は1時近くになっていた。就寝。

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2006年8月22日 (火)

チベット紀行 4

Photo_4 Photo_3 Photo_4 Photo_5 □2006.6.18

07:00、モーニングコール。よく寝たなあ。人によってはダイヤモックスのせいで、夜中に何度も尿意をもよおし、熟睡出来ないらしい。そういや、AS氏も何度も起きていた。幸い私は出発直前までのハードなスケジュールのせいもあって、肩こりに苦しめられるものの、割合よく寝ている。08:00、食事へ。みんな、なんとなく、空気の希薄さのせいか、元気がないように見えるが、でも食事は進んでいる。HNさんなど、女性というのに、とにかくたくさん食べている。見ていて気持ちが良い健啖家である。そんな中、正木先生だけが摂生しておられるようだ。9:05、バスにてポタラ宮殿へ。ホテルからは10分足らずの距離であるが、宮殿の門前で、約50分間の足止めを食う。バスで宮殿内に乗り入れるための交渉に時間がかかったのである。10:10、ようやく交渉が成立し、入場する。5分ほどでバスの車寄せに到着。歩いた方が早かったよ。

ポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城。ラサの町の西の端に位置するマルポ・リ(紅い丘)にある宮殿式建築群である。チベット族の古建築の精華といわれている。「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味だそうで、観音菩薩とは、その化身とされるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は、主楼の高さが117メートルもあり、総面積は13万平方メートルに及ぶという。建物は白宮と紅宮に分かれている。ダライ・ラマは宗教と政治双方の最高権力者であったわけだが、政治部門は白宮で、宗教部門は紅宮で執り行っていた。白宮は建物の下層と両側に広がり、紅宮は、白宮に支えられるように、中央部分の八階以上の高層を占めている。1959年に現ダライ・ラマ14世が亡命して以来、主なき城となり、今は中国政府が博物館にしてしまった。一日の参観定員があるようで、事前に予約を入れておかないと入るのは難しいと聞く。しかも結構な参観料とか。

参観はまずダライ・ラマが政務を執った白宮に入り、次に紅宮へと案内される。歴代ダライラマの霊廟やチベット密教の「カーラチャクラ(時輪)立体曼荼羅」、法王たちの所蔵した素晴らしい工芸品や宝物の数々を参観。なかでも目をひいたのは五世の霊廟。霊塔の高さは14メートル。3700キログラムの黄金と15000個の宝石が使われたその絢爛豪華ぶりは圧倒的である。ハリウッド映画「セブンイヤーズインチベット」で有名なダライ・ラマ法王との謁見の間なども巡る。このポタラ宮から睥睨したラサの街の大展望は素晴らしかった。

しかしこのポタラ宮参観は少しがっかりもした。なにせ物凄い数の観光客である。欧米人の姿も見えるが、多くは漢人たちだ。巡礼者も見かけたものの、ダライ・ラマのいない此処は今はもう観光名所でしかない。中国政府のチベットへの力の入れようを見る限り、ダライ・ラマはここに戻って来られることは決してないだろう。それとポタラ宮の周辺がすごい。グラビア世界遺産で見たポタラ宮は秘境の宮殿に相応しく寂寥たる高地に厳然としてそびえる巨大な建物であったが、今は宮殿の表裏ともに開発が進み、私のイメージにあったポタラ宮とはまったく違った風景の中にあった。中国化が進むチベットを象徴するかのような、佇まいだったのである。それでもポタラ宮殿自体は素晴らしい。世界遺産に相応しい荘厳な楼閣と、長い年月に渡りチベット仏教の聖地として、チベット人たちが崇め続けたその偉容に接する機会を得たことは感激であった。

11:20、参観を終え、バスに戻る。宮殿前の正面広場で写真撮影をして、食事へ向かう。昼食はネパール料理であった。高山では飲酒は厳禁と教えられていたが、結構体調もよいし、参加者で酒好きの人も多くて(一番の酒好きは自分であるのに人のせいにしてはいけないが…)、かねて憧れのラサビールを注文し、豆カレーなど、ネパール料理を堪能した。

14:45、ラサ郊外のデプン寺(哲蚌寺)へ向かう。約25分で到着。デプン寺はラサ市の市街から西北に5キロほど離れた、山の斜面に立つゲルク派の寺院で、明日参観予定のセラ寺、ガンデン寺とならびゲルク派三大寺院の一つ。創建は明の永楽14年(1416)、ゲルク派の創始者ツォンカパの高弟ジャヤン・チェジュによって建てられたという。17世紀、ダライ・ラマの宗教・政治両面における絶対的権威が確立しダライ・ラマ五世がポタラ宮に居を移すまでは、ここが居城であった。しかしながら中国侵攻後、文化大革命の災禍によって、このデブン寺は他のチベット寺院同様に打ち壊しなどの大変な被害を蒙り、その爪痕は今も生々しい。往時は7000名を超える僧侶が修行をしていたというゲルク派最大の寺院だった面影は失われて久しく、境内の荒廃ぶりは痛々しいが、それでも参観中には観光客や巡礼者の姿に接し、徐々に復興しつつある状況も伺えた。

17:00、デブン寺足下に位置するネチュン寺参観。ゲルク派にとって重要なことを占うネチュン神が祀られる大切な寺院。しかしここも徹底的な文化大革命の破壊によって、多くの建物や什物が失われ、復興が始まったばかりの状況だった。

ところで、各所で、一生懸命説明をしてくれるガイドのテンジンさんはとても良い人なのだが、正直にいうと日本語はかなり聞きづらい。故に行く先々でのガイドブックは手放せない。ただ今回のツアーはなんといっても正木先生の引率であり、疑問があれば的確に答えてもらえるのは有り難かった。

18:40、一旦ホテルに帰り軽くシャワーを浴びた後、夕食のレストランへ行く。今夜はしゃぶしゃぶのお店。数年前に中国・五台山巡礼の旅をしたとき、大同という街で、羊肉のしゃぶしゃぶを食したことがあったが、中国のしゃぶしゃぶ料理はなかなかいける。しかしまさかラサまで来てしゃぶしゃぶを頂けるとは思っても見なかった。そして大同同様にここもとても美味しかった。私は日本からポン酢を持参してきていたのであるが、これが大成功。まるで日本食のしゃぶしゃぶ料理となったのである。あ、食事の話ばっかり書いている。間違いなく、毎日食べ過ぎである。

20:20、ホテル帰着。21:00,ホテル内のラウンジにある大型テレビの前でワールドカップの日本VSクロアチア戦を観戦。慶応ボーイのT君と御曹司のS君たちと一緒に観る。残念ながら0-0のドローでしたが、日本人同士で応援していると、なんだか秘境の国へ来ているような気がしませんね。

「主なきポタラ宮」

巡礼者を押しのけて、物見遊山の観光客に踏みにじられる観音菩薩の聖地・ポタラ宮。主であるべきダライ・ラマ14世は、中国の、チベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けてインドに亡命する。1959年、ラサで起きた大規模な中国に対する反乱を契機に、人民解放軍がチベット人の殺害やチベット寺院の破壊を行うが、この難を避けてダライ・ラマは亡命の道を選んだのであった。現在インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国際社会に対してチベットの独立運動を展開しているが、2度のこの地に法王がお戻りになることはないのかもしれない。

巡礼者の一人として、主なきポタラ宮を参観する中、いろんな思いが去来する。チベットは中華人民共和国の成立と共に、チベットの歴史と文化の二つながら、大中国に飲み込まれ、文化大革命によって、大きな大きな打撃を受ける。チベット人民の独立すら奪われて、その精神的支柱のチベット仏教は疲弊したのである。その象徴が主なきポタラ宮殿であり、博物館と化した聖庁なのだ。

翻って我が修験道を考えると、明治の欧米化政策は神仏分離を施策し、権現信仰の禁止と共に修験道の廃止を断行する。権現信仰の法城である金峯山寺蔵王堂もまた、明治7年には廃寺となり、13年間神社とされたが、のちに仏寺に復帰し、日本全土の修験寺院が廃絶される中、奇跡的にその法脈を保ったのである。それは偏に当時の人々の信仰心に支えられた抵抗運動の賜物であろう。

ポタラ宮殿の存続は博物館としての継承では意味がない。歴代ダライ・ラマ法王の嘆きやいかばかりであろうか…と私は思った。だからこそ、チベット人民の信仰心の継続に、いずれ迎える新たなよき時代を拓く鍵がある、そんな思いを一人巡らした主なきポタラ宮殿の参観であった。宮殿内の豪華な陳列物に饗応する中国人観光客に罪はないが、その信仰なき、無節操な態度に忍びがたい不快さを覚えたのは私だけではないだろう。

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2006年8月21日 (月)

チベット紀行 3

Photo_3 617_ 617 □2006.6.17

04:00、またも事件発生。同室のAS氏が時差を直していなかったため、真夜中にけたたましく目覚まし時計が鳴ったのだ。まったく、迷惑な奴である。しかし当然、心が大らかで、慈悲深い私は何もなかったように無視して眠っているふりをした。05:00、モーニングコール。05:30,朝食。6:00,バス乗車。空港到着の後、エアバスにてチベットへ。日本からの国際便より、搭乗機が大きい。成都ーラサ間の利便さがもたらしたものであり、それほど成都とラサの行き来が頻繁に行われている証左だと、総奉行の貫田さんから聞く。

10:00、チベット西蔵自治区のゴンカル空港着。聞いていたとおり、抜けるような青空と透き通るような空気の軽さである。冬の衣服はいらんかったなぁ…と重いスーツケースを恨めしくみる。ともかく私にとって初めてのチベットである。正木先生の指示もあり、昨夜から、いただいた高度障害対策の薬・ダイヤモックスを服用しているお陰か、思ったほどの高度障害を感じない。ゴンカル空港の高度で約3600㍍というからいきなり低地から富士山山頂に着いたようなもの。空気は確かに薄い。ちょっとした階段でもハアハアする。にもかかわらず若干、頭に痛みを覚える程度で、さほどの不快感がないのは有り難い。周りの同行者を見ると結構顔色を悪くして気分のすぐれない人もいるようだ。伊藤さんも不愉快そうな顔をしていた。昨日飲み過ぎたせいかなあ。チベット滞在中の現地ガイドのテンジンさんというチベット人の方が出迎えに来てくれていた。180㎝を超える屈強な体格の人である。貫田さんも正木先生も懇意らしい。彼はかなり有名なガイドさんのようで、日本のことも詳しい。「高地ですから、慣れるまでは、なるべくゆっくり歩いて下さい。」というアドバイスに従って、行動はゆるやかにおしとやかに。確かになんだか体がふわふわしているなあ。

年代物のチャーターバスでラサに向かうが、途中、少し寄り道して、最初の訪問地コンカル・ドルジェデン寺(金剛法座寺)を参観。10:40着。ここは正木先生旧知の寺で、今はガラス張りで覆われている堂内の壁画が、まだ保護工事を施される前に、奇跡的に取材する機会を得たというチベット仏教新サキャ派の寺院である(後年このときの撮影記録は立川武蔵・正木晃共著『チベット密教の神秘』<学研>として出版されている)。私にとってはこのコンカル・ドルジェデン寺が初めてのチベット仏教との遭遇地となった。本堂脇には噂に聞いたマニ車が設置され、参詣者が回している。私も周りしてみる。このマニ車、必ず右周りに回さないといけない。一回りさせるごとに仏教経典の一切経一読と同様の功徳があるという。関西では四天王寺の極楽門前にあるマニ車が有名であるが、他ではあまり見かけない。チベット寺院ではどの寺でも設置されていた。本堂内に入ると僧たちがたくさん集っていた。説法会の最中である。ひんやりとした空気、ローソクだけのほの暗いあかりの中で経典を読誦する30名あまりの僧達を目の前にして、いささかその雰囲気に飲み込まれたような思いであった。

本堂をはじめ二層三層と続く堂内壁画は、チベット仏画史上、最大級の画家といわれるキェンツェの作とみなされている。その素晴らしい美しさは遠く日本から訪ねるに足る価値と感動を与えてくれた。但し(このあとのどのお寺でもおなじなのだが)、堂内撮影にはその都度、いくばくかの寄進を強要され、その額はお寺によって差異はあるものの、チベット滞在中、合計するとそうとうの金額を支払うことになる。もちろん日本じゃ、堂内は撮影厳禁で少々お金を払っても、そう簡単には撮影させてもらえないのだから、チベット寺院の方が良心的というなら良心的といえるかもしれない。最上層の階へ上り、全員で勤行をする。あらかじめ用意した錫杖を振って、私がお導師を勤めさせて頂いた。今回は全日程を通してチベット寺院巡礼の旅であり、単なる参観旅行ではない、という私なりの意義を込めての勤行であったが、正木先生をはじめ他の参加者にも大変喜んでもらえたようだ。チベット僧の唱えるお経に慣れ親しんだチベットの諸尊には見知らぬ日本の修験僧のお経など、とまどうばかりであったかもしれないが、諸仏供養の心は納受して頂けたに違いない。

12:10、再びバスへ。一路ラサを目指す。青い空と透き通るような大気に覆われたチベットの大地は予想どおりに雄大にして爽やかである。梅雨の日本を出発し、湿度の高い成都から入国したせいもあってか、素肌に気持ちいい快適な気候であり、高度障害もさほど私は感じない。13:00、道路の脇にそびえるネタンの摩崖大仏前を通る。バスの中から大仏を拝む。そして13:45、ラサ市に到着し、ラサでの宿泊所・ヒマラヤ飯店に入る。

チベットは人口密度の少ない国であるから、さすがに街と街の間にはあまり人家は見かけなかったが、ラサに近づくに従って建物が増えてきた。しかしながら、世界の秘境といわれたチベットである、さぞかし秘境っぽい佇まいがあるに違いないと期待していたが、案に反して、そういう私たちが想像するチベットらしい風景はラサ市内にはほとんど残っていなかった。小中国って感じで、看板に毒々しく描かれた簡体文字の中国語とともに併記されるチベット文字にわずかなチベット国の匂いを感じた程度。街全体の作りや雰囲気は完全に中国ナイズされている。「これでもう5,6年すればもっともっと中国化してチベットらしいものはいよいよ損なわれてしまいますから、是非今のうちに見ておくべきなのです。」とは正木先生の言である。

14:30,ホテルで昼食。予想に反して料理は美味しい。「高地にくると、多くの人がとてもハイな気分になるので十分摂生して下さい」と何度もいわれたが、ハイになっているせいなのか、食事が結構進む。自制をしなくては…。そういえばチベットの達人・正木先生自身は食事の量が極端に少ない。それが秘訣なのだろう。伊藤さんはどうも高度障害にかかっていて顔色も悪いが、それでも結構食べていた。

ともかくチベット旅行は高山順応がなによりも大切である。今日明日は体を空気の薄い高地に慣れさせることが一番であり、スケジュールもゆったりと組まれている。17:00、夜の食事の前に、腹ごなしも兼ねて、八角街にある正木先生御用達というタンカ画専門店を訪ねる。あいにく先生のご友人の画師は留守であったが、ここのタンカは先生が褒めちぎるだけの価値がある作品ばかりで、素晴らしいものであった。その分、他のお店のタンカと比べると単価(たんか)が高いなあ…とオヤジギャグを一人でつぶやいて、誰にも言わずに苦笑した。高度障害のハイテンションのせいなのかもしれない。土産は買うまいって心に決めてチベット入りしたが、初日にしてその禁を破り、早速購入してしまった。またまた土産物ツアーになってしまいそうである。私は海外旅行に行くと、ついついいろんなものを買ってしまう癖がある。帰国後は、ほとんど見向きもしないようなものばかりを買うのだが、何度行ってもこの癖は治らない。しかしここのタンカ画は本当に素晴らしかった。

20:00,ホテル内のレストランで食事。先生、ここの食事も美味しいよ。ダイエット出来ないなあ…。21:00、部屋に戻ってテレビをつけると辺境の地ラサというのに、成都同様、ワールドカップの生中継をやっていた。もうラサは辺境ではないのだ。しかし、諦めていた、明日の日本VSクロアチア戦も観戦することが出来そうである。有り難いけど、日常を離れて秘境の旅に出たつもりでいただけになんか複雑。

23:00、AS氏の目覚まし時計の時間設定を確認して就寝。また夜中にたたき起こされてはたまらないから…。明日からいよいよラサ市内の参観である。

「高山病対策薬・ダイアモックスについて」

文中、正木先生から勧められた高山病対策薬ダイアモックスの服用について記述しているが、このダイヤモックスは、本来はてんかんやメニエール病の特効薬として開発された薬剤(炭酸脱水酵素抑制剤・アセタゾラ)で、偶然の機会に、高山病にも非常によく効くことがわかり、欧米で普及したという妙薬である。ただし、日本では、薬事法の関係から、一般の薬局などでは入手不能で、医者の処方箋がいる。副作用は基本的には、服用法を誤らないかぎり、ほとんどないといわれているが、ただし、フェノベール、アレピアチンとは併用してはいけない。

用法はまず、チベットに入る前日の夜(就寝の前に)、半錠を服用する。次にチベットのコンカル空港に到着する30分前に、機内で残りの半錠を水とともに服用。そして最初の2日間は、朝・昼・晩の3回、半錠ずつ服用し、高度順応がうまくいって体調がよければ、服用は止める。また体調に何らかの異常を感じた場合は、ただちに服用する。バッファリンのような薬と併用しても、副作用はないといわれている。ただ服用すると、大量の尿が、頻繁に出るので、つねに水分を摂取し、排泄しつづけることが肝心で、これによって高地馴化が飛躍的に進むという。

今回、正木先生と貫田さん以外はチベット初体験者であり、根っから素直な私のように、言いつけ通りに薬の服用をした人は概ね高度障害が少なかった。それに反して、言いつけを無視して薬の服用を怠った人ほど、高山病に苦しむことになった。またこのことが後日の大事件に繋がる要因にもなった。

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チベット紀行 2

○2006.6.16

06:00、起床。06:50にシャトルバスで成田へ向かう。成田手前でいきなり警備員がバスに乗り込んできて、身分証明書の提示を命じられる。成田からのフライトは初めてなのでその重々しい警戒ぶりに驚くが、しかしこれも身の安全を考えると致し方のないことなのであろう。物騒な世の中になったものである。

07:30、参加者全員が揃う。総奉行の貫田宗男さんが点呼をとり、大先達の正木晃先生がご挨拶。団員は私を含め金峯山寺関係のAO、IS(二人は私のお弟子)、同室となるAS、それから紅一点のHNさん(看護士さんなのでなにかと心強い)の5人と、正木先生の講座の生徒である生活奉行の伊藤さん、HSさん、MAさん(MAさんは真言宗智山派の和尚)、MTさん、ORさん、TMくん(現役慶応ボーイ)、SKくん(某都内有名寺院のお世継ぎ)の7名という多士済々。年齢は68歳から21歳までの老若男女である。08:10、搭乗手続き終了。搭乗案内までのひととき、自由行動となるが、金峯山寺関係参加者5名だけでささやかなうどん朝食会。みんな私の呼びかけに応じて参加してくれた人たちである。

09:50、離陸。まずは北京を目指す。13:30,北京空港着。ここで日本時間との時差1時間の時計調節。以降は1時間遅れとなり、現地時間の12:30に針を戻す。北京空港へは中国への入国審査のためのみの立ち寄りで、入国審査を終えると元の搭乗便に戻る。13:30、再び出発、一路四川省の成都へ。

16:30、成都着。チベット・ラサへはこの成都からの飛行機による入国ルートが便数も多く、もっとも便利で一般的であるという。チベットの行き帰りにこの成都に一泊ずつすることになる。チャーターバスにて市内のホテルへ。錦江賓館という、市内で最も高級なホテルとか。成都は四川省最大の都市で、人口1200万人という。三国志で有名な劉備玄徳や諸葛孔明が活躍した蜀の国の首都がこの成都。現地ガイドの謝さんから、「今日は珍しく晴れています。成都には『蜀犬、陽に吠える』という有名な諺があり、陽が差すのは年間100日くらいで、普段は雨の多いむしむしした土地なのです」と聞く。確かに日本の真夏を思わせる高温多湿の蒸し暑い気候である。

17:30、ホテルで荷物を確認した後、四川料理の店へ。本場の四川料理に舌鼓を打ちつつ、旅行の道中安全を願って全員で乾杯。それぞれ簡単に自己紹介をした。

18:30、食事終了後、ホテルへ。19:00、最初の事件発生。なんと同室のASがこともあろうに私のスーツケースの鍵を壊したのである。解除した状態のロックの部分に激突し、左側の留め金を半分潰してしまったのだ。なんとか鍵は出来るがロックはかけられないので、このあとの日程は常にガムテープで鍵の部分を覆わないとといけなくなる。初日到着早々の事件であったが、旅行中の前途多難を予見させる事件であった。

19:30、反省の色をみせないASを部屋に置き、気分直しに、街へ出る。生活奉行の伊藤さんたちを伴って、1時間半ほどぶらぶらするが、ともかく蒸し暑い街である。道ばたの居酒屋に入り、一杯3元(約45円)の生ビールを呑む。安いだけあって、正直美味しいとは言えなかったが、ともかく安い。ホテルへ戻り、冷房のきいたラウンジで呑んだビールは30元(450円)。やはりどことも観光客対象のホテルの値段は高いなあ。でもしっかり冷えてうまかった。はじめて中国に来たのはもう20数年前になるが、あのときは冷えたビールなどどこにも置いてなかった。ま、ビールだけでなく、このあともいろんな意味で大変革が進む中国という国には驚かされることになるが、値段の格差といい、近代化中国を身近に実感したビールであった。部屋に戻ってテレビをつけるとワールドカップサッカーを生中継していた。中国に来てワールドカップ中継が見れるとは思ってなかったので、驚いたが、サッカーファンの私としてはかなり嬉しい。全編中国語の解説はさっぱりわからず、見ていても盛り上がらないが贅沢は言えない。

23:10、就寝。いよいよ明日はチベットである。

「旅行中の食事について」

私は数年前まで中華料理が大の苦手であった。というか、高級は中華料理はどうも口に合わず、中華といえば眠眠の餃子か王将の中華料理(あれを中華といっていいのかどうかはわからないが…)くらいしか食べれなかった。それがあるとき、高級中華の本当の美味しさを知ってしまい、今では王将にもいくが、高級中華も大好物である。

それだけではない。高級中華を好きになって劇的な変化が起きたのである。実は高級中華がきらいなときは中国旅行に行くのは苦痛であり、3日もするとあの中華独特の匂いが鼻について食欲がおきなかったのである。いや、中華だけではなく、インドにいっても、韓国にいっても現地の料理が食べれなくて、日本食ばかりを部屋で食べていた。ところが高級中華に目覚めるのと同時に、どの国へ行っても、あまり拒絶反応が起きなくなり、その土地の料理をだいたい美味しく食べられるようになったのだ。なぜかは未だにわからないが、加齢的なものなのかもしれない。加齢なら本当は反対なのかもしれないが…。

ともかく美味しくいただけるのは海外旅行でとても大切なことである。今回、正木先生から食べものは期待しないで下さいと言われていたので覚悟してきたが、実際には旅行中、ほとんど不自由することはなく、逆にチベットダイエットをしようと思っていたのに、いささか体重が増えてしまうことになった。この日の四川料理も本当に美味しかった。Photo_1 Photo_2