「しししのはなし」
私には悪い癖がある。なんでも安請け合いをしてしまう癖である。そのためにえらいことにたびたび出会っている。
過去に、JAXA(宇宙航空研究開発機構)や愛・地球博で講演したことなどはその見事な一例である。なんでも頼まれると身の程をわきまえず、受けてしまうのである。
実は今回も、来月開催される自殺防止学会といういささか重たいテーマの研究会での、特別講演を受けてしまった。その事務局から、講演の趣旨を書いてくれと言われて、今日、ともかく書いて出した。以下である。
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「生と死・・・修験道に学ぶ」
私は19歳の時と、その19年後の38歳の時の2度、親友を亡くしました。一人は大学時代に知り合った友で、知り合って1年足らずの頃、彼は自殺しました。二人目は中学時代からの親友で、突然の事故死でした。
私が生まれた時にはすでに祖父も祖母も亡くなっていたし、親しくしている親戚もなかったので、身近な人の死を目の辺りにしたのは親友の死が初めてでした。
「死」は「生」の裏返しであるとは世間でよく言われる言葉ですが、私にとって二人の突然の死を考えることは、その後の私自身の生と向き合うことでもありました。また私が自分の生と向き合うことで二人の友人の死がいまなお、私の中で生き続けているともいえます。
さて、私が属する修験道という宗教は、日本古来の山岳信仰に、神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが習合して成立した我が国固有の民俗宗教でありますが、ひたすら実践主義を貫き、千年以上にわたり、大自然や山中での実践修行を重んじてきました。修験とは「実修実験」「修行得験」という意味でもあります。山に伏し、野に伏して修行する山伏の宗教で、その山の修行で「験力」(超自然的な神仏の力)を得たものを修験者というのです。
修験の教えはたくさんあります。そのひとつ、山での修行の心得として、「擬死再生」=一度死んで生まれ変わるという教えがあります。山での難行苦行の果てに、死を疑似体験し、そして神仏に浄化されて、ふたたび生まれ変わって山から出てくるといえばわかりやすいでしょうか。実際に山中では死ぬほどの苦しい体験もしますし、また儀礼的として「胎内くぐり」であるとか、捨身修行の行場も用意されています。
5歳のとき、山伏であった父に初めて山の修行に導かれ、それからかれこれ60年近く修験道の教えに触れてきた人間として、修験道を学んできた立場から、「生と死」について考えてみたいと思います。
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これを読むと、なんか、ものすごく面白そうな話が始まるみたいである。いや、私自身は講演会までにいろいろ調べて、今までとは違う視点で学び直そうと思っているのではある。で、安請け合いをするのである。
だがしかし・・・。そういいながらいつも大した下調べができないまま、当日が来てしまって、いつもの話で終始してしまうのである。
さきに書いたJAXAも愛・地球博の講演も、表題はかたや「宇宙飛行士と山伏」であり、かたや「水・森・いのち」というまったく違う表題であったが、内容はほぼご一緒。両講演とも講演録が出来たが、読み直してみると、ほんとに一目瞭然で、同じ話をしているのである。
今回の「生と死…修験道に学ぶ」は少しちゃんと下調べして、まともなものにしなくてはと思っている。
そんなときに、盟友を自他共に自認する宗教学者の正木晃先生から新著が届いた。これは本当にありがたかった。「生」と「死」をきちんと考え直す絶好の機会となった。
皆さんにもお勧めします。
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