「生と死…修験道に学ぶ」③
昨日一昨日とアップした日本自殺予防学会講演録の続きです。
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3番目。「人間の本質は繋がりにある」ということ。山の修行で学んだこと感じたことはたくさんありますが、その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行の11回目を迎えたときに、私は強烈な体験をしました。その日は朝からすごい雨が降っていました。もう体中ぐしょぐしょです。行中は1日に20箇所ぐらい「靡」(なびき)という場所で勤行するのですが、そのときは明星ヶ岳の遥拝所というところで勤行をしていました。ずっと雨が落ちていました。わずかな時間、勤行する間に、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲や、あらゆるものが、まさに自分と繋がっている、ということを実感したのです。
これはもう突然でした。たぶんその日はすでに8時間ぐらい歩いていて、くたくたでした。行に入って3日目だと思いますが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、ふと、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中が感じたのです。そしてすべてが繋がっていることを感じたその時に、私の死に対する考えが変わったのでした。
さきに紹介したように、私は、死は常に地球を外側から見ている自分がいて、全てから疎外されて、自分だけ死んでそれでも地球はいままで通りに運行をしている、そう思うとすごい孤独感というか、恐怖感にさいなまれ、それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのですけれど、繋がっているということが実感できた時に、私の死に対する恐怖は極めて小さくなって行ったのです。この繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのです。
大自然の中で修行していると全部のものに繋がっている、自分が、私が、というそういう我執のようなものが消えてしまって「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来たのです。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを山の修行の中で学んだわけであります。
それは「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表されると思います。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は繋がり合う中にこそある、ということです。「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがあるのです。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。
つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行で私は気づかせて頂きました。つまり孤独な生の克服というのは繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思うのです。
自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が人間の心の中にはありますが、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを、極めることが実は大事なのではないか。これは大きなキーワードになると思います。唯一絶対の神との繋がりというような欧米的なものとは違う、多神教を基層とする日本的な独特の世界観と言っていいかもしれません。
□日本人の自殺率は高い
さて、この自殺予防学会での講演のお話を頂いて、何を話そうかと思っているときに、私はたまたま北陸の加賀に行き、相田みつをさんの記念展に遭遇しました。その相田さんの記念展で、この学会のテーマとリンクして私の中で入ってきた言葉がありました。相田さんは素晴らしい言葉をたくさんお残しになっていますが、この学会でお話をすることに私は結構プレッシャーを感じていたので、よけい私の心に響いたのかもしれません。
それは「あのね、人間はね、自分の意思でこの世に生まれてきたわけじゃねえんだな。だからね、自分の意思で勝手に死んではいけねえんだよ。」という言葉でした。その通りだな、と思います。でも、その通りだなと私は思いますが、世の中には思わない人はきっとたくさんいるのだろうな、ということも思いました。
私の友人で正木晃さんという宗教学者がおられますが、正木さんから聞いたお話なので私が調べたわけではないことをお断りして、紹介をいたします。
世界における自殺率というものがあるそうなのですが、日本人は、キリスト教徒よりも圧倒的に自殺する人が多いと聞きました。なぜ日本人が多く、キリスト教徒の自殺は少ないのか。キリスト教も最近はずいぶん様子が変わってきているとも聞きますけれども、基本的にキリスト教徒は日本人と比べると自殺率が低い。なぜなら、キリスト教徒は、自分の命は神様から、いわゆるヤハウェの神様から頂いたものであるので、自分で命を絶つということは神に逆らうことであるという倫理観があり、それによってキリスト教徒は自殺率が低いのだそうです。
それに対して、日本人はと言うと、相田さんがお書きになっているように自分の命は自分で勝手に生まれてきたのではなくて、頂いた命なのだというーこれは仏教の考えもあろうかと思いますし、そういう視点を持ちなさいということでありますが、実はキリスト教徒のような厳格なものが倫理観としてないのが日本ではなかろうか。
いや、自殺は日本人にとって、本当に悪いことなのでしょうか?江戸時代、自殺は美学でした。サムライたちは自分の命に代えて名誉を守ったり、主人に対する忠誠を誓いました。社会はそれを良しとした時代がついこの間まであったわけであります。いや仏教では未だに自殺が続いております。中国による弾圧によってチベットではもう200名近い僧侶の方が焼身自殺で命を失っておられる。仏教では法華経などに説かれる焼身供養という考え方がありますが(『法華経』薬王菩薩本事品)、自分の身を焼いて仏に供養する行いがある。そういう考え方の中で、チベットでは中国に対する抵抗のひとつとして、焼身自殺が未だに続けられている。こう考えると、決して自殺が悪いと言えない社会が実はあるのではないか。
じゃあ、どうするのだということでありますが、そんな中で私が言えることがあるとするなら、繋がりの中で生きている、ということをもう一度見つめ直すところから始めましょうと思うわけです。
(以下次回へ)
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写真は本文中で紹介したあいだみつをさんの字句です。
次回が最終です。
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