令和最初の講演会・・・

令和元年がはじまりました。よろしくお願いいたします。
私にとって令和最初の講演会は東京での慶應MCC定例講演会『夕学五十講』への出講です。

よろしければ、関東のみなさん、慶應『夕学五十講』においでください。まだ席に余裕はあるそうです。

詳細は以下。
■日時:2019/5/9(木)18:30-20:30(18:10開場)※質疑応答30分あり
■表題は「修験道の世界~身体を使って心を修める~」
■要旨「ITやロボットと共生する時代だからこそ、人間が本来持っている自然から学ぶ力について、修験道を通して考える機会をみなさんと共有できればと思っています」
■講師案内 田中 利典(金峯山寺長臈、種智院大学客員教授)
           https://kae.me/2FXTCGP
■受講料 5,400円(税込)
■場所:東京駅前の丸ビル7階 丸ビルホール ※JR東京駅から5分

○講演については『夕学五十講』ウェブサイトをご参照ください。
 https://www.sekigaku.net/

 *なお、写真は講演のパワポ表紙です。

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」③

「生と死…修験道に学ぶ」③

昨日一昨日とアップした日本自殺予防学会講演録の続きです。

***************


3番目。「人間の本質は繋がりにある」ということ。山の修行で学んだこと感じたことはたくさんありますが、その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行の11回目を迎えたときに、私は強烈な体験をしました。その日は朝からすごい雨が降っていました。もう体中ぐしょぐしょです。行中は1日に20箇所ぐらい「靡」(なびき)という場所で勤行するのですが、そのときは明星ヶ岳の遥拝所というところで勤行をしていました。ずっと雨が落ちていました。わずかな時間、勤行する間に、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲や、あらゆるものが、まさに自分と繋がっている、ということを実感したのです。

これはもう突然でした。たぶんその日はすでに8時間ぐらい歩いていて、くたくたでした。行に入って3日目だと思いますが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、ふと、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中が感じたのです。そしてすべてが繋がっていることを感じたその時に、私の死に対する考えが変わったのでした。

さきに紹介したように、私は、死は常に地球を外側から見ている自分がいて、全てから疎外されて、自分だけ死んでそれでも地球はいままで通りに運行をしている、そう思うとすごい孤独感というか、恐怖感にさいなまれ、それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのですけれど、繋がっているということが実感できた時に、私の死に対する恐怖は極めて小さくなって行ったのです。この繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのです。

大自然の中で修行していると全部のものに繋がっている、自分が、私が、というそういう我執のようなものが消えてしまって「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来たのです。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを山の修行の中で学んだわけであります。

それは「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表されると思います。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は繋がり合う中にこそある、ということです。「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがあるのです。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。

つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行で私は気づかせて頂きました。つまり孤独な生の克服というのは繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思うのです。

自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が人間の心の中にはありますが、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを、極めることが実は大事なのではないか。これは大きなキーワードになると思います。唯一絶対の神との繋がりというような欧米的なものとは違う、多神教を基層とする日本的な独特の世界観と言っていいかもしれません。

□日本人の自殺率は高い

さて、この自殺予防学会での講演のお話を頂いて、何を話そうかと思っているときに、私はたまたま北陸の加賀に行き、相田みつをさんの記念展に遭遇しました。その相田さんの記念展で、この学会のテーマとリンクして私の中で入ってきた言葉がありました。相田さんは素晴らしい言葉をたくさんお残しになっていますが、この学会でお話をすることに私は結構プレッシャーを感じていたので、よけい私の心に響いたのかもしれません。

それは「あのね、人間はね、自分の意思でこの世に生まれてきたわけじゃねえんだな。だからね、自分の意思で勝手に死んではいけねえんだよ。」という言葉でした。その通りだな、と思います。でも、その通りだなと私は思いますが、世の中には思わない人はきっとたくさんいるのだろうな、ということも思いました。

私の友人で正木晃さんという宗教学者がおられますが、正木さんから聞いたお話なので私が調べたわけではないことをお断りして、紹介をいたします。

世界における自殺率というものがあるそうなのですが、日本人は、キリスト教徒よりも圧倒的に自殺する人が多いと聞きました。なぜ日本人が多く、キリスト教徒の自殺は少ないのか。キリスト教も最近はずいぶん様子が変わってきているとも聞きますけれども、基本的にキリスト教徒は日本人と比べると自殺率が低い。なぜなら、キリスト教徒は、自分の命は神様から、いわゆるヤハウェの神様から頂いたものであるので、自分で命を絶つということは神に逆らうことであるという倫理観があり、それによってキリスト教徒は自殺率が低いのだそうです。

それに対して、日本人はと言うと、相田さんがお書きになっているように自分の命は自分で勝手に生まれてきたのではなくて、頂いた命なのだというーこれは仏教の考えもあろうかと思いますし、そういう視点を持ちなさいということでありますが、実はキリスト教徒のような厳格なものが倫理観としてないのが日本ではなかろうか。

いや、自殺は日本人にとって、本当に悪いことなのでしょうか?江戸時代、自殺は美学でした。サムライたちは自分の命に代えて名誉を守ったり、主人に対する忠誠を誓いました。社会はそれを良しとした時代がついこの間まであったわけであります。いや仏教では未だに自殺が続いております。中国による弾圧によってチベットではもう200名近い僧侶の方が焼身自殺で命を失っておられる。仏教では法華経などに説かれる焼身供養という考え方がありますが(『法華経』薬王菩薩本事品)、自分の身を焼いて仏に供養する行いがある。そういう考え方の中で、チベットでは中国に対する抵抗のひとつとして、焼身自殺が未だに続けられている。こう考えると、決して自殺が悪いと言えない社会が実はあるのではないか。

じゃあ、どうするのだということでありますが、そんな中で私が言えることがあるとするなら、繋がりの中で生きている、ということをもう一度見つめ直すところから始めましょうと思うわけです。
(以下次回へ)

***********

 写真は本文中で紹介したあいだみつをさんの字句です。
 次回が最終です。

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」③

「生と死…修験道に学ぶ」③

昨日一昨日とアップした日本自殺予防学会講演録の続きです。

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3番目。「人間の本質は繋がりにある」ということ。山の修行で学んだこと感じたことはたくさんありますが、その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行の11回目を迎えたときに、私は強烈な体験をしました。その日は朝からすごい雨が降っていました。もう体中ぐしょぐしょです。行中は1日に20箇所ぐらい「靡」(なびき)という場所で勤行するのですが、そのときは明星ヶ岳の遥拝所というところで勤行をしていました。ずっと雨が落ちていました。わずかな時間、勤行する間に、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲や、あらゆるものが、まさに自分と繋がっている、ということを実感したのです。

これはもう突然でした。たぶんその日はすでに8時間ぐらい歩いていて、くたくたでした。行に入って3日目だと思いますが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、ふと、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中が感じたのです。そしてすべてが繋がっていることを感じたその時に、私の死に対する考えが変わったのでした。

さきに紹介したように、私は、死は常に地球を外側から見ている自分がいて、全てから疎外されて、自分だけ死んでそれでも地球はいままで通りに運行をしている、そう思うとすごい孤独感というか、恐怖感にさいなまれ、それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのですけれど、繋がっているということが実感できた時に、私の死に対する恐怖は極めて小さくなって行ったのです。この繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのです。

大自然の中で修行していると全部のものに繋がっている、自分が、私が、というそういう我執のようなものが消えてしまって「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来たのです。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを山の修行の中で学んだわけであります。

それは「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表されると思います。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は繋がり合う中にこそある、ということです。「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがあるのです。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。

つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行で私は気づかせて頂きました。つまり孤独な生の克服というのは繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思うのです。

自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が人間の心の中にはありますが、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを、極めることが実は大事なのではないか。これは大きなキーワードになると思います。唯一絶対の神との繋がりというような欧米的なものとは違う、多神教を基層とする日本的な独特の世界観と言っていいかもしれません。

□日本人の自殺率は高い

さて、この自殺予防学会での講演のお話を頂いて、何を話そうかと思っているときに、私はたまたま北陸の加賀に行き、相田みつをさんの記念展に遭遇しました。その相田さんの記念展で、この学会のテーマとリンクして私の中で入ってきた言葉がありました。相田さんは素晴らしい言葉をたくさんお残しになっていますが、この学会でお話をすることに私は結構プレッシャーを感じていたので、よけい私の心に響いたのかもしれません。

それは「あのね、人間はね、自分の意思でこの世に生まれてきたわけじゃねえんだな。だからね、自分の意思で勝手に死んではいけねえんだよ。」という言葉でした。その通りだな、と思います。でも、その通りだなと私は思いますが、世の中には思わない人はきっとたくさんいるのだろうな、ということも思いました。

私の友人で正木晃さんという宗教学者がおられますが、正木さんから聞いたお話なので私が調べたわけではないことをお断りして、紹介をいたします。

世界における自殺率というものがあるそうなのですが、日本人は、キリスト教徒よりも圧倒的に自殺する人が多いと聞きました。なぜ日本人が多く、キリスト教徒の自殺は少ないのか。キリスト教も最近はずいぶん様子が変わってきているとも聞きますけれども、基本的にキリスト教徒は日本人と比べると自殺率が低い。なぜなら、キリスト教徒は、自分の命は神様から、いわゆるヤハウェの神様から頂いたものであるので、自分で命を絶つということは神に逆らうことであるという倫理観があり、それによってキリスト教徒は自殺率が低いのだそうです。

それに対して、日本人はと言うと、相田さんがお書きになっているように自分の命は自分で勝手に生まれてきたのではなくて、頂いた命なのだというーこれは仏教の考えもあろうかと思いますし、そういう視点を持ちなさいということでありますが、実はキリスト教徒のような厳格なものが倫理観としてないのが日本ではなかろうか。

いや、自殺は日本人にとって、本当に悪いことなのでしょうか?江戸時代、自殺は美学でした。サムライたちは自分の命に代えて名誉を守ったり、主人に対する忠誠を誓いました。社会はそれを良しとした時代がついこの間まであったわけであります。いや仏教では未だに自殺が続いております。中国による弾圧によってチベットではもう200名近い僧侶の方が焼身自殺で命を失っておられる。仏教では法華経などに説かれる焼身供養という考え方がありますが(『法華経』薬王菩薩本事品)、自分の身を焼いて仏に供養する行いがある。そういう考え方の中で、チベットでは中国に対する抵抗のひとつとして、焼身自殺が未だに続けられている。こう考えると、決して自殺が悪いと言えない社会が実はあるのではないか。

じゃあ、どうするのだということでありますが、そんな中で私が言えることがあるとするなら、繋がりの中で生きている、ということをもう一度見つめ直すところから始めましょうと思うわけです。
(以下次回へ)

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 写真は本文中で紹介したあいだみつをさんの字句です。
 次回が最終です。

 

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「紀伊山地の霊場と参詣道は日本的で多様な精神風土が残る稀有な場所」

「紀伊山地の霊場と参詣道は日本的で多様な精神風土が残る稀有な場所」

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明治初年(1868)の神仏分離令によって、伝統的に神仏習合によって成り立っていた日本固有の宗教体系は世俗的権力によりつき崩されます。伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策により、神仏習合の修験道は存在することさえ許されず、明治5年に修験道廃止令が出ます。全国各地にあった修験道は一時消滅し、大方が廃寺となったり神社になったりしました。金峯山寺も一時廃寺となり、仏寺として復興されたのは明治19年です。

一方では1906年の神社合祀の勅令により、1914年までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊され、次々と国有地として没収。森林は伐採され民間へと売却されていきました。

そうした苦渋に満ちた歴史を踏まえた上で、我々は神道や仏教のみならず、いかなる宗教をも受け入れるという寛容で融和的なわが国の宗教風土を、改めて見直していかねばならないと思います。

明治の近代化政策の中で、レリジョン(Religion)という一神教的価値観の宗教概念を「宗教」と訳して使用しだしましたが、その宗教概念が入ってくる前から、日本には仏教や神道という信心の世界がありました。

日本人が本来戻るべきは明治より前で、近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからないのではないかと思います。

日本人の精神の基をはぐくんできた多様な形の、創造主をもたない宗教というのは、一神教の宗教とは成り立ちが全く異なるものです。紀伊山地の霊場と参詣道はそういう、一神教の価値観に凌駕されない日本的で多様な精神風土がまだ残っている稀有な場所だと思っています。

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これは2年ちょっと前に、宗教人類学者の植島啓司先生や熊野本宮大社の九鬼宮司たちと、東京で開催した世界遺産シンポジュウム「紀伊山地の霊場と参詣道の本質を探る」(2017年12月9日 於:東京・ベルサール九段)での私の発言です。World Cultural Heritage(Japan)日本の世界文化遺産サイトの中でアップされています。シンポジュウムの記録は以下です。よろしければご覧ください。

http://www.worldheritagejpn.com/include/sympokiijp.html
#吉野 #熊野 #高野山 #紀伊山地の霊場と参詣道

★なお、今年の秋、また植島啓司先生・九鬼さんといういつもの凸凹メンバーで、世界遺産登録15周年記念のシンポが計画されています。場所は三重県尾鷲市です。

「JAXAで講演・・・」~リクエストにお答えして。

「JAXAで講演・・・」~リクエストにお答えして。

講演の冒頭でよくつかう定番のギャクに、JAXA(宇宙航空研究開発機構)で講演したときのお話しがある。何度も聞いたことがある方もいるでしょう。

この時の「宇宙飛行士と山伏」という講演はマジ受けた。話を聞いて、田中利典を宇宙飛行士にして宇宙へ飛ばそうという理事さんが出てきたくらいである。

で、ときどき、そのときの講演録を見たいという申し出を受ける。実は講演当初はJAXAの公式サイトにも掲載されていたが、10年以上も前のことなので、そのうち削除された。残念なことに講演録のデータを私も持っていない。

ただ、講演のあと、JAXAの公式サイト用のインタビューの取材があり、これがしばらく載っていた。JAXAのスタッフが吉野山においでになり、長時間のインタビューを受けたのである。ただ現在は、これも公式サイトからも削除されているが、幸いこちらは私の手元に原文があった。

興味のある方は是非ご覧下さい。全5回です。

10年前とはいえ、あまり古さは感じさせませんし、小林先生のインタビュアーとしての力のお陰で、読み返してもなかなか生き生きと語っていますねえ。名インタビュー記事です。記事は2年前のこのブログに「田中利典著述を振り返る」としてアップしたものですけど・・・。再掲載です。

「気づきを共有しあうこと」ー宇宙飛行士と山伏①
 http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a59e.html

「ことを起こす4つのキーワード」ー宇宙飛行士と山伏②
 http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-2acf.html

「時代性、社会性の大事」ー宇宙飛行士と山伏③
  http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a2b5.html

「脳だけが肥大している」ー宇宙飛行士と山伏④
 http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-facc.html

「宇宙とどうつきあっていくか」ー宇宙飛行士と山伏⑤
 http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-7121.html

*あのときの話が、どんくらい、JAXAに影響を与えたのでしょうか?実はあのとき関わった方はほとんどJAXAを退官されているそうです。ちょっとさみしいです。まあ、過去のあしあととして・・。

「次は自殺予防学会・・・」

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9月2日の奈良県立図書情報館での妖怪マーケット講座「天狗と山伏」ではかなり苦労した。10年以上前に行った、JAXA(宇宙航空研究開発機構)での「宇宙飛行士と山伏」の講演以上に苦労したのであった。まあ、JAXA同様に思いの外、講演内容は好評を博して安堵したが、ともかく、なんでも安請け合いをしてはいけないとあらためて反省をしている。

が、なんと、今月はもうひとつ難儀な講演を受けてしまったいる。

第42回日本自殺予防学会( http://www.congre.co.jp/jasp2018/)での特別講演である。

「天狗と山伏」はいろいろ調べるのに苦労をしたが(天狗のことを何も知らないのに講演依頼を受けた罰であるが‥)、けっこう井上円了さんとか柳田國雄さんの妖怪学を紐解いたりして、なかなか面白かったし、学びも多かった。

ただ今度の講演はその手の興味本位というような内容ではなく、極めて学術的でかつ自殺防止という極めてシビアな問題である。もう準備をしないといけないが、ちょっとテーマが身に余っていて、我が身のうかつさに後悔をしているような今日この頃である。

表題は「生と死…修験道に学ぶ」という、まあ、せっつかれるまま、ともかく思いつきのテーマを書いて出した。で、その後事務局から、講演を趣旨を800字程度で事前に教えてほしいと言われて、これも考えなく、思いつくままに書いて出した。以下である。

************

「私は19歳の時と、その19年後の38歳の時の2度、親友を亡くしました。一人は大学時代に知り合った友で、知り合って1年足らずの頃、自殺しました。二人目は中学時代からの親友で、突然の事故死でした。

私が生まれた時にはすでに祖父も祖母も亡くなっていたし、親しくしている親戚もなかったので、身近な人の死を目の辺りにしたのは親友の死が初めてでした。
「死」は「生」の裏返しであるとは世間でよく言われる言葉ですが、私にとって二人の突然の死を考えることは、その後の私自身の生と向き合うことでもありました。また私が自分の生と向き合うことで二人の友人の死がいまなお、私の中で生き続けているともいえます。

さて、私が属する修験道という宗教は、日本古来の山岳信仰に、神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが習合して成立した我が国固有の民俗宗教でありますが、ひたすら実践主義を貫き、千年以上にわたり、大自然や山中での実践修行を重んじてきました。修験とは「実修実験」「修行得験」という意味でもあります。山に伏し、野に伏して修行する山伏の宗教で、その山の修行で「験力」(超自然的な神仏の力)を得たものを修験者というのです。

修験の教えはたくさんあります。そのひとつ、山での修行の心得として、「擬死再生」=一度死んで生まれ変わるという教えがあります。山での難行苦行の果てに、死を疑似体験し、そして神仏に浄化されて、ふたたび生まれ変わって山から出てくるといえばわかりやすいでしょうか。実際に山中では死ぬほどの苦しい体験もしますし、また儀礼的として「胎くぐり」であるとか、捨身修行の行場も用意されています。

5歳のとき、山伏であった父に初めて山の修行に導かれ、それからかれこれ60年近く修験道の教えに触れてきた人間として、修験道を学んできた立場から、「生と死」について考えてみたいと思います」

***********

連日の台風災害や北海道の胆振地震など、被災された映像を見ながら、心を痛めていて、なんとなく自分のふがいなさにめげているが、講演まで2週間となり、そろそろ準備もタイムリミットに近づいた。やっぱり安請け合いは大けがの元という感じで、立ち尽くしている。どうなることやら・・・。ほんまにアホやなあ。

「天狗と山伏」

「天狗と山伏」

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9月2日の奈良県立図書情報館で講演するパワポ作りをようやく終えました。

ひさしぶりにこんなに手間をかけたことはないってくらい、天狗は難しい。調べれば調べるほどよくわからないし、もともと天狗のことなんてなんにも知らないわけで、えらいものを引きつけたなあと、反省しております。

絶対期待をしないように・・・。とほほ。

講座「神仏霊場会と巡礼のお話」

6月は各地でたくさんの講座が控えています。ありがたいことです。
東京は6/24です。よろしければお越し下さい。

*************

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神仏霊場会10周年記念 
奈良鎮護の道巡礼キャンペーン講座「神仏霊場会と巡礼のお話」

日時:平成30年6月24日(日)18:30~19:40

神仏霊場会は近畿一円の152の社寺が加盟する日本で最も大きな巡礼の会です。 その中、奈良県下には南都の社寺を中心に全県にわたり、30の加盟社寺があり、現在も多くの巡礼者で賑わっています。そこには神と仏を分け隔てなく尊んできた日本人の信仰心を取り戻す聖地があります。

神仏霊場の巡礼とはなにか?その意義と魅力をお話しいただき、新たな奈良の魅力を感じていただきます。

1.日  時:平成30年6月24日(日)18:30~19:40
2.講  師:田中 利典 師(金峯山寺 長臈)
3.会  場:奈良まほろば館2階
4.資料代等:無料
5.定  員:70名(先着順)
6.申込方法:
・ハガキまたはFAX
必要事項(講演名・講演日時・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
下記のHP「申込フォーム」からお申し込みください。

 https://www.mahoroba-kan.jp/course.html

【講座】神仏習合の聖地「紀伊山地の霊場と参詣道」

4月22日には朝日カルチャーセンター新宿教室で、宗教人類学者の植島啓司先生と、紀伊山地の霊場と参詣道の世界遺産トークに出演します。朝カル新宿教室はかれこれ4年ぶりかも・・・。

また二人でのトークセッションもひさしぶり。

昨年、ラジオで先生とお話しをしました。よろしければ朝カルの予習として、以下のYouTubeをご覧下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=sV3ZNXI7B_E&t=305s

なお、朝カル講座は下記をご参照ください。まだ間に合います。

*********************

朝日カルチャーセンター新宿教室
【講座】神仏習合の聖地「紀伊山地の霊場と参詣道」

○講師名
 宗教人類学者 植島 啓司
 総本山金峯山寺長臈 田中 利典

○講座内容
 神道と仏教、その両者が結びついた修験道など、紀伊山地は多様な信仰の形態を育みました。吉野、高野、熊野の3つの霊場は世界遺産にも登録されています。
世界にもまれな聖性を感じる場所、紀伊山地。長年この地に深く関わってきたふたりが、その魅力をたっぷりと語り合います。

日程
2018年 4/22 (日曜) 15:00-16:30

受講料(税込み)
4月(1回)会員 3,672円 一般 4,320円

詳しくは以下のサイトへ ↓

【講座】神仏習合の聖地「紀伊山地の霊場と参詣道」

もう植島先生とのトークセッションはなんどめだろうか?15回は超えるかもしれない。
同じ先生とこんなに何度もトークをさせていただいたことは稀である。
その先生と久しぶりに朝日カルチャーセンター新宿教室に出演します。朝カル新宿教室はかれこれ4年ぶりかも・・・。
また二人でのトークセッションもひさしぶり。

テーマはもちろん「紀伊山地の霊場と参詣道」。
是非おいでください。まだ空いています。お急ぎのほど・・・。

*********************

朝日カルチャーセンター新宿教室

【講座】神仏習合の聖地「紀伊山地の霊場と参詣道」

○講師名
 宗教人類学者 植島 啓司
 総本山金峯山寺長臈 田中 利典

○講座内容
 神道と仏教、その両者が結びついた修験道など、紀伊山地は多様な信仰の形態を育みました。吉野、高野、熊野の3つの霊場は世界遺産にも登録されています。
世界にもまれな聖性を感じる場所、紀伊山地。長年この地に深く関わってきたふたりが、その魅力をたっぷりと語り合います。

日程
2018年 4/22 (日曜) 15:00-16:30
 
受講料(税込み)
4月(1回)会員 3,672円 一般 4,320円 

詳しくは以下のサイトへ ↓
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/eacd496a-53b0-6005-3a2b-5a65b4197d02

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