「17万人の山伏消滅」ー田中利典著述集290213

16729049_1330512773681375_290054482

「17万人の山伏消滅」ー田中利典著述集290213

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今日は17万人の山伏消滅の話です。4年前に書いた文章。よろしければお読みください。

*******************

「17万人の山伏消滅」

明治初期の神仏分離、修験道廃止の時代に、職を失った山伏の数はなんと十七万人がいた…という話を講演会などでするようになって随分経つが、この十七万人という数、最近一人歩きし始めている。

実は十七万人は私が調べた数字ではない。友人である日枝神社宮司三輪隆裕氏の「国家神道の成立とその背景」という論文が出典で、それをもとに紹介しているのである。

それにしても十七万人とはすごい数字だ。現在の日本において、伝統仏教諸教団および新興の仏教系の教団を含めて、僧籍を持った者(僧侶)の数は約二十二万人と言われている。

「なんだ、(当時の修験者の総数である)十七万人よりも、現在の僧侶の数のほうが多いじゃないか」と思うかもしれないが、現在の日本の人口が一億二千六百万人余。それにに対し、明治初期の総人口はたった三千二~三百万人。つまり、約四分の一の人口の時代に、十七万人もの山伏がいたということになるのだ。現在の人口に換算するなら、六十数万人もの山伏がいることになる。いかに途方もない数字であることがわかるだろう。

修験道は明治に大法難に遭うが、その凄まじさを実感させてくれる数字が十七万人なのである。私が紹介をするようになって、よそでもときどき見かけるようになった。明治の法難の中で、修験自体の勢力が損なわれ、また研究者からも、単なる猥雑な迷信信仰の如き扱いを受けたせいもあり、修験道全体が正しく把握されていないのが実情であるが、それだからこそ、十七万人という数のインパクトは大きいのだろう。

修験信仰は決して日本人にとってマイナーな信仰ではない。日本という環境・風土そのものが生んだ日本土着の信仰であり、日本的な精神文化の象徴でもある。それは、神と仏を分け隔て無く尊んできた日本人の心そのものえお伝えているとも言えるであろう。是非、そういう視点をきちんと持って、蔵王権現信仰を歩んでいきたいものである。そう、十七万人の末裔の一人として…。

ー「金峯山時報2013年2月号所収、蔵王清風」より

*****************

*写真は大峯を行く山伏たち。

「一生懸命にお祈りをすることの意味」・・・田中利典著述集290211

16602428_1328224003910252_390248929

「一生懸命にお祈りをすることの意味」・・・田中利典著述集290211

****************

「一生懸命にお祈りをすることの意味」

宮村 金峯山寺と言いますと〈世界遺産〉でございますよね。そして今ちょうど「秘仏本尊特別ご開帳」が行われているということで、今日はどんなお話になるんでしょうか?

田中 はい。ご本尊のお話とご本尊にお祈りをすることで少しいい話がありましたので、そんなお話を・・・。

実は蔵王堂のご本尊は普段は前に〈戸帳〉という幕が下りていて拝めないんですが、今は12月9日まで特別ご開帳ということで幕を開けまして、皆さんにお参りをしていただいています。

このご本尊は普通の仏さんと違って「蔵王権現」と呼ばれる、修験道という山伏の宗教独特のご本尊なんです。

役行者という方が祈りだしたと言われるご本尊なんですが、〈悪魔降魔の尊〉、つまり悪魔を〈降伏〉する大変恐ろしいお姿をなさっています。

悪魔降伏ですから、悪魔を懲らしめるというお姿の中にはさまざまな意味があるのですけれども、左足でドカッと大地を踏みしめる意味は、大地の揺らぎを鎮めるということなんですね。

昨年の3月11日に東日本で大きな地震があって、大きな津波がありました。その翌日から私たちは大地の揺らぎを権現さまの足で鎮めていただけるように、何とかこれ以上この日本の大地が揺るがないようにということで、お祈りを続けてるんですね。今も続けてるのですけれども。

震災が起こってから1ヶ月ちょっとぐらい経った時に、お勤めを終わって本堂を出ますと、知らない人から声をかけられたんです。その人は私のことをよく知ってて、東京方面で年に1~2回講演をしたりするので、その講演においでになったことのある方のようで、

「実は私は東北出身ですが、今回の震災で身内も友人も実家も誰も大きな被害に遭わなかった。それを思った時に誰かにお礼を言いたい、感謝の心を捧げたい、とそういう気持ちになって思わず新幹線に飛び乗っていた。で、気がついたらこの吉野の蔵王堂に来てお参りをしていた。
お参りをしていると、この蔵王堂で東北の震災のこれ以上地震が起こらないように、また亡くなったたくさんの方々の御霊が鎮められるように、というお祈りを毎日していただいてることにたまたま遭遇して、とても感動した。
で、これは帰って実家の東北の人たちに、遠い吉野でも私たちのことを毎日お願いをしていただいてる、お祈りをしていただいてるということを伝えたい」

ということをおっしゃっていただいた。

震災については救援活動とかいろんな支援の仕方があると思いますが、我々はまずご本尊に日々お祈りをして、そのお祈りを通じて何か出来ることはないだろうかという気持ちを持っていたのですが、お祈りをすること自体がこんなに人々を力づけることになってるんだ、ということを、その方を通じて教えていただいて、改めて「一生懸命にお祈りをすることの意味」を感じたんですね。

実は日本というのは、金峯山寺だけではなくて日本中の寺社で、例えば東大寺さまでも、春日大社さまでも、大阪ですと四天王寺さまでも、日々、〈天下泰平〉〈風雨順次〉それから人々の安穏がずっと願い続けられている、そういうお祈りが続けられた一日が今日という一日なんだ、ということを私たちも自信をもって思わなければいけない。

そういうことが、出会ったその人を通じて、ご本尊に教えられたような、そんな気持ちにさせていただいたことがあるんですね。

蔵王堂のご本尊は、お顔の色が青黒色という大変鮮やかな色をしておられます。こんなに色鮮やかな仏さまってあまり無いんですよね。

顔は大変こわいのですが、その奥には仏さまの慈悲が込められている。そのこわいお姿の奥にある仏さまの慈悲はお肌の色に表れている。仏教では「青黒は慈悲を表す」といいます。仏さまの慈悲があの青い色。我々はこれを〈恕の心〉と呼んでいます。「女」扁に「口」を書いて「心」。これは「お互いを許し、認め合い、慈しむ」ということなんですね。

権現さまのお姿はただこわいだけではない。悪魔を降伏するような大きな力がある。大地の揺らぎを抑えるような大変な力がある。でもその奥には人々を受けとめて、そして人々の安らぎを慈しんでやろうという、そういう大きな慈悲が感じられるのです。

日々のお勤めを通じて、いろんな出来事があるたびに、我々にとって大事なことは何なのかということをご本尊から教えられるようなことでした。普段は幕が掛ってて拝めないんですけども、この12月まで開いてますのでぜひこの機会にたくさんの方においでいただいて、慈悲の心、お互いを認め、許し合うような、そういう大きな力のあるお祈りを感じていただけたらと思います。

宮村 そうですね。実際に写真で見るよりも、もっともっと実物はすごいって話はうかがってますので。

田中 はい。三体おられるんですが、中央は高さ7.3メートル。両側が6.1メートルと5.9メートル。写真で見る以上に圧倒的な大きさなんです。

大きいことによって悪魔降伏の力を全身で感じられるし、そしてその大きな慈悲も全身で受けとめられる。そういう大きい姿に接することで非常な力をきっと誰でも感じていただけると思っています。 (平成24年11月25日 放送)

ー『ちょっといい話』第11集(平成25年8月/新風書房刊)より
 

**************

本文は朝日放送ラジオで今も放送されている一心寺提供「ちょっといい話」に出演した内容が書籍になって出た文章の転記です。もう5年も前になります。

今年もご開帳はあります。今期は4月1日から5月7日まで。是非、お越し下さい。

*写真はご開帳時に蔵王堂でお導師を務めていた頃の私の写真です。

なお、『ちょっといい話』第11集(平成25年8月/新風書房刊)は以下で買えます。
    ↓
http://www.shimpu.co.jp/bookstore/item/itemreco/1549/

追伸 「ちょっといい話」は2回取りです。明日もこの続きをご紹介します。

「日本文化の再生」ー田中利典著述集290101

15826065_1283752711690715_656330944

「日本文化の再生」ー田中利典著述集290101

あけましておめでとうございます。拙稿著述集の今年最初の投稿です。

金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記していますが、今日は7年前のお正月の文章です。

少しも色あせてはいない感じがかえって、病巣の根深さを自覚させますねえ。

****************

「日本文化の再生」

新年明けましておめでとうございます。その新年ののっけから、ナンですが…今まさに、日本文化が危機に瀕しているように感じます。

明治維新の欧米化から百四十年。大東亜戦争の敗北から六十数年。哲学者梅原猛氏が指摘するように二度の神殺し(「反時代的密語~神は二度死んだ」)が、日本文化を破壊しつつあります。

梅原氏曰く、一度目の神殺しは明治の神仏分離。それは単に神仏の殺害ではなく、神と仏を共に尊んできた日本の精神文化の基層の部分の崩壊を意味し、そして崩壊させてのちに、新たに構築したのが天皇を神として奉り、国家神道を中心に据えて誕生した近代国家だったのです。

これによって我が国は東アジアで唯一、近代化にいち早く成功を収め、繁栄を享受するところとなりますが、肥大化しすぎた国家はその挙げ句、欧米列強との衝突によって、大東亜戦争に突入し、敢えなく敗戦を迎え、そして進駐軍政策の下、せっかく神仏分離をしてまで作った国家神道はみごとに解体され、天皇は人間宣言をして、二度目の神殺しが行われるところとなった、というのです。

さてここにいう文化とは何なのでしょうか。文化とはカルチャーであり、土地を耕すという原意を持ちます。 つまり文化とは元々は土地であり、風土であり、国土なのです。ドイツ・ワイマール共和国時代に、作家トーマス・マンはそれを、その風土から生まれた宗教だ、とも言っています(『非政治的人間の省察』)。

日本文化の危機は日本の風土の危機であり、日本の宗教の危機ともいえるでしょう。

いま、いろんな場所、いろんな状況下で危機が叫ばれています。世界的にグローバル資本主義が暴れ回る中、経済破綻、自然環境破壊、文明間の衝突、そして内側では、学級崩壊、家庭崩壊、重度の人格崩壊…などなど。それはもしかすれば明治以降の近代化百四十年の中で急速に広まったことであり、しかも単に日本だけの危機ではなく、世界的な文化の危機なのかもしれません。

実に、文明は文化を駆逐するのです。近代というバケモノは高度な物質文明社会、機械文明社会を産み出し、世界各地の文化を壊し続けてきました。文化は風土であり、習俗であり、宗教であるとするなら、世界各地にあったにその土地土地の風土が壊れ、習俗、宗教の消滅を生んだのは、近代文明がもたらした紛れもない災禍でありましょう。

決して飛躍的な考え方ではなく、そういう時代に生まれ合わせていることを、現今の宗教人は自覚しなければいけないのではないかと私は思っています。宗教人こそ、文化の担い手の最終砦なのです。とりわけ明治の神仏分離によって壊滅的な破壊の対象となった日本固有の宗教である修験道に身を置く私にとっては、痛みを持って実感するところであります。

「破壊は再生だ」ともいいます。宗教人はものごとをネガティブに考えず、ポジティブに考えなければなりません。ポジティブに、文化破壊の時代を生きなければならないのです。破壊によって再生がなされるなら、いまこそ再生の時ととらえ、行動すべきなのだと考えています。

ここ十数年、声を枯らして修験道ルネッサンスを提唱し続けた私の原点はまさにこの思いからなのです。文化は宗教なり…この金言を心に銘じて、今年一年もまた頑張り抜きたいと思っています。南無蔵王一仏哀愍納受悉地成就…

ー「金峯山時報2010年1月号所収、蔵王清風」より

*****************

意気込んで書いていた7年前が懐かしい気もします。私なりにこの道を突き進んでいければと願っております。

*写真はイメージです。

「デクノボー」ー田中利典著述集281229

B5ecc38efd8a97bbefc864e6a658edee

「デクノボー」ー田中利典著述集281229

10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いたた駄文を折に触れて転記していますが、今日は二年前の文章です。

このころは自分なりに苦しんでいたのが、ひしひしと伝わって来ます。ま、生きてる限り、人間は常にそれなりの苦しみを持ちながら生きるモノではありますが・・・。愚痴ではなく、常に心にしておきたいと思います。

***********************

「デクノボー」

法華経に出る常不軽菩薩を敬愛してやまなかったのは宮沢賢治である。第二十常不軽菩薩品に書かれる常不軽菩薩。『あらめの衣身にまとひ、城より城をへめぐりつ、上慢四衆の人ごとに菩薩は禮をなしたまふ。「我は不軽ぞかれは慢こは無明なりしかもあれ。いましも展く法性と菩薩は禮をなし給ふ」われ汝らを尊敬す。敢えて軽賤なさざるは汝等作佛せん故と。菩薩は禮をなし給ふ。「ここにわれなくかれもなし、ただ一乗の法界ぞ法界をこそ拝すれと、菩薩は禮をなし給ふ」』

ちょっと難しいので意味を書き直すと、『常不軽菩薩は、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して、「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言った。すると人々はその言葉に怒り出して、「この無智の坊主め、どこから来たって『私はあなた達を軽んじません。』われらがためにまさにみ仏になるでしょうと、嘘そらごとを言うのだ。お前みたいな坊主がそんなに言ったからといってどうしてありがたかろう」と罵られ、杖で追い払い、瓦や石をもって殴りかかってきた。菩薩はその場をにげては、遠くから大声で「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじません。あなた達はみんな仏になるでしょう」と叫んだというのである。

宮沢賢治の有名な詩「雨にも負けず」に出るデクノボーとはまさにこの常不軽菩薩のことを指す。「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズクニモサレズ、サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」(「雨にも負けず手帳」より)の「デクノボー」である。

いま、自分の周りで起こっている多くのことは自分の意とは違うものばかりである。もちろんそんな思いで生きているのは自分ばかりではない。そう、わかっていても愚痴りたくなるのが人間であり、心打ち砕かれるのが凡人ゆえの弱さであろう。なかなか宮沢賢治や常不軽菩薩のようになれないが、それでも私は菩薩でありたいと思うし、デクノボーとして生きていたいと思う。         

ー「金峯山時報平成26年10月号所収、蔵王清風」より

*****************

もう今年もあとわずか・・・。「デクノボー」として生きていける自分を作れたかどうかはいささか疑問の本年でしたが、少しずつでもそうありたいと願います。

*写真は宮沢賢治の手帳。ちなみに私は宮沢賢治と誕生日が一緒で、中学生のときにそれを知って以来、賢治は私にとってあこがれの哲人です。

「菩薩の詩」

O0299037410689191447
「菩薩の詩」ー田中利典著述集281222

10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記しています。

今回は3年前の文章。マザー・テレサの名言として知られる詩であるが、本当はマザー自身の作ではないらしい。でも、心に沁みる詩である。とりわけ、これを書いたときは本当にひどい目にあったときだったので、身に沁みて応えた詩だった。
***********************

菩薩の教えは世界共通なのだ。そう思ったのはかの修道女マザーテレサが残したある言葉に出会ったときだった。キリスト教も仏教も修験道の、聖者の目指すところ、願うところは同じなんだと思ったのである。

その言葉を少々長いが以下引用する。

 人は不合理、非論理、 利己的です。
 気にすることなく、 人を愛しなさい。

 あなたが善を行うと、
 利己的な目的でそれ をしたと言われるで しょう。
 気にすることなく、 善を行いなさい。

 目的を達しようとす るとき、
 邪魔立てする人に出 会うでしょう。
 気にすることなく、 やり遂げなさい。

 善い行いをしても、
 おそらく次の日には 忘れられるでしょう
 気にすることなくし 善を行い続けなさい。

 あなたの正直さと誠 実さとが、
 あなたを傷つけるで しょう。
 気にすることなく
 正直で誠実であり続 けないさい。

 助けた相手から
 恩知らずの仕打ちを 受けるでしょう。
 気にすることなく助 け続けなさい。

 あなたの中の最良の ものを
 世に与え続けなさい。
 けり返されるかもし れません。

 気にすることなく、
 最良のものを与え続 けなさい。
 気にすることなく、
 最良のものを与え続 けなさい…。

実はこの言葉に出会ったとき、私は思わず泣いていた。マザーの慈悲に泣いたのである。菩薩の心に泣いたのである。人はときどきどうしても立ち止まらないといけないときがある。立ち止まって、菩薩の心を見つめ直してみるときがいるのだ。私はマザーの言葉に泣きながら、自分の中にある本当の菩薩の心を確かめさせていただいていた。

ー「金峯山時報平成25年5月号所収、蔵王清風」より

*****************

今でも、いろいろ心に痛い言葉です・・・

*写真はマザー・テレサ。

「生に習う・・・」

D1c4b0a02cf53faf60bc693db47a5612

「生に習う・・・」ー田中利典著述集281221

10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記しています。

今回は4年前の文章である。ここ1ヶ月、隠居の身としてはかなり忙しい日々の中に生きていて、あぁ、4年前はずっとこんな生活をしていたのだなあと、妙に懐かしくなりました。よろしければ読んでください。

***********************

「生に習う・・・」

「先生、いつも、お忙しいですね」っていうと、必ず「いえ、大丈夫です。忙しがっているだけですから…」と答える先輩がいる。「忙しがっている」って、けだし、名言だと思う。そうなんだ、自分で忙しがっているだけで、ホントはそんなに忙しくないんだ…って思うと、その通りだと思える。

ここ数年、正直、傍目に見ても私には忙しい日々が続いてきた。怒濤の日々、などと自分で言ったりする。でも確かに忙しかったのは間違いないが、まあ、忙しがっていたのだといわれると、そうとも思える。どうしてもしなくてはならないことに追われいたというより、自分でやりたいことを次々始めては忙しくしてきただけで、忙しがって生きてきたのが事実なのかもしれない…とも思える。

先日、遺伝子工学の世界的権威者である村上和雄師の講演を聴いた。師曰く「地球は48億年前に生まれ、40億年前に一個の生命細胞が誕生した。その一個の生命細胞から、その後全ての地球上の生命が生み出された。人間もまたその一個の細胞から始まっている。そしてその最初の細胞から今に至るまでの全記憶データはあらゆる生命に全て受け継がれているのだ。つまり人の命というのは厳密に言うと、40億才プラス実年齢となる。よって、5才の子どもも、80才の老人もそう大した変わりはない。40億+5と40億+80の違いを考えるとね…」というようなお話だった。

この村上先生のお話を聞いて、私は「やっぱり忙しがって生きなければならない」とまた思い直した。「私」という今生の命は、40億の継続の中で生まれたのだけれど、私でいられる時というのはまさに40億の上に立つ、数十年ってことである。大事に大事に、生きないことには、自分に至るまでのあらゆる命に申し訳ない。しかも、限られた時間を「私」として無駄にしないように。

修験道には「死に習う」という教えがある。常に自分の死を念頭において、今日の命を精一杯生きなさいということであるが、逆に「生に習う」ということも言えるような気がする。自分の命の連続性を思うほどに、今の命を大事に生きなければならないのだ。となれば、忙しがって生きるのもそう悪くはないってことになる…などと思ったりしている今年の年末、雑感である。

ー「金峯山時報平成24年12月号所収、蔵王清風」より

*****************

今日は夕方まで暇。ホテルでゆっくりしながら、こんなものを書いています。ほんとはしなくちゃいけないこともあるのですが・・・。

*写真はイメージです。

「権現とご神木の山桜」ー田中利典著述集2801215

15380307_1266891850043468_827757503

「権現とご神木の山桜」ー田中利典著述集2801215

久しぶりに、著述集から紐解きました。まあ、なんどもお伝えしてきたことですが、よろしければご覧ください。

***********************

「権現とご神木の山桜」

日本では仏教が伝来してきて、最初少し蘇我氏と物部氏との争いがありますが、基本的に神様と仏さまは仲良くやって参りました。

日本人は元々仏さまを神様として受け入れたんです。それは『日本書紀』を読むと、外来から来た仏さまのことを「アダシクニノカミ」、「蕃神(ばんしん)」と書いています。元々、仏さまと神様を分けていなかった。仏ではなく新しく外国から来た神様なのです。そして元々いる神様と外国から来た神様で仲良くなっていくわけであります。

で、仲良くなっていって「本地垂迹」という日本独特の考え方が、ここで生まれてくるわけであります。月の光が湖や沼や水たまりに映るような、この場合本体の月が「本地」=仏さんであるとすると、その池に映った月というのは「垂迹」つまり神様。神様と仏さまは、実はそういう関係にあって、同じものである、そういう考え方です。

吉野には釈迦観音弥勒の権化である蔵王権現、熊野には熊野三所権現。本宮の家都御子神(けつみこのかみ)様が阿弥陀如来。ですから本宮は阿弥陀浄土ということで、時宗の一遍上人がそこでお悟りを開かれたといわれます。それから、新宮速玉の神様は薬師如来。那智の夫須美の神様は千手観音、というような権現といいますか、神様と仏さまを融合させた信仰が生まれた。

羽黒は、羽黒権現は、これは観音さんの本地。白山は、白山妙理権現、これは十一面観音尊が本地。富士山は浅間(せんげん)大菩薩、これは大日如来が本地。京都には愛宕神社、愛宕権現というのは、これは地蔵菩薩の権化。江戸は徳川家康が死んで、東照大権現になった。これは薬師如来の権化というような、神様と仏さまを融合させたそういう信仰。それが権現信仰です。

ですから権現というのは、神でもあり仏でもある。その権現様を役行者は祈りだした時に山桜の木に刻んでお祀りしたところから、吉野では山桜は蔵王権現の御神木として、千年単位に人々が大切に守ってきまして。

そして、山を埋め、谷を埋め、千本桜ー花の名所になっていったわけでありますが、先ほど申し上げましたように、江戸の八代将軍吉宗の時に始まった庶民の花見より、はるかに以前に信仰の形で吉野では花がたくさん植えられてきて、それを人々が見るようになってきた。権現信仰あるいは金峯山寺というお寺の関係と、この山桜、吉野の桜というのは、大変深い関係があるわけであります。         )

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

*****************

*写真は2016年、世界遺産登録記念展覧会「祈りの道」展で大阪市立美術館に出陳されたときの、旧安禅寺本尊蔵王権現像(金峯山寺所蔵)です。

「山伏健康法」

15027397_1227287944003859_357524130

「山伏健康法」ー田中利典著述集281116

10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記していますが、今日はちょうど2年前に書いた比較的新しい文章。

山伏健康法と題したが、もうほぼ山修行は引退に近い毎日で、正直、書いた当時よりも更に怠惰な生活をいまは送っている。ほんと、少しは身体を動かさないといけないなあと、つくづく思う。

***********************

「山伏健康法」

今年はどうも体調がよくない。還暦前だし、年齢的にはまあ体の変調は当たり前かも知れないが、それでもいろいろと原因を考えてみて、ふと気づいたことがある。今年は山の修行が足りないのではないかということだ。

今年も自坊で行く山上ヶ岳団体登拝には引率して行じたが、ここ三十数年続けてきた蓮華入峰には諸般の事情で行けなかった。また、数年前に大峯奥駈修行を引退して、代わりに始めた富士山修行にも今年は参加出来なかった。本格的な山歩きは、五月末の「吉野ー高野の道開闢修行」を行じたくらいで、通年と較べると極めて少ない。

そもそもが、山伏のくせに山の修行はあまり好きではない筆者である。好きではないが、修行だから、その時期が来れば行じてきた。「よくその足で行じてますねえ」と鍼灸の先生に言われることもあったし、運動不足は甚だしい身なるが故に、そうとう無理した山修行ではあったが、それでも衰えた体に鞭打って山の修行を重ねてきたのであった。

山嫌いなので正直、心の片隅で「こんな無茶な修行はきっと体には悪いなあ」と思っていたが、それがどうやら違ったようなのだ。少々、足や膝に悪くても、怠惰な生活に終始する運動不足の我が身には、一年に何度か、無理してでも、へとへとになるほど山を歩き、汗まみれになって全身で行じるのがよい。いや、それが私にとっての、ここ三十年以上続けてきた山伏健康法だったのかもしれない。

「我々の修行は大自然の中に曼荼羅世界を見て、神と仏を拝みながら歩くのであるが、山修行のよいところは、聖なるものに包まれる中で、心と体のバランスを取り戻すところにあるのではないだろうか。都会生活ではいろんな場面で心に疎外感を持たされるが、山修行に没頭すると、実感として、心と身体のバランスを取り戻し、魂と肉体の一体感を感受するのである・・・」(拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 』(集英社新書)』)などと、外に向かっては山修行の効能を喧しく伝え続けてきたが、そんな難しい意味ではなく、山伏にとっては山修行自体が「山伏健康法」なのではないかと、つくづく思い当たったのである。

みなさん、健康を保つためにも山の修行に行きましょうね。

ー「金峯山時報平成26年11月号所収、蔵王清風」より

*****************

吉野での八千枚大護摩供修行に随喜して一昼夜の間、行者さんと一緒に毎座ごとの「蔵王権現供養法」を脇壇で行じたが、なまった体にはたった一昼夜だけの徹夜なのに、3日たった今でもまだ応えている。山伏健康法は確かに言えていると思う。

*写真は現役で大峯奥駈修行を行じていた頃の筆者。両脇は同行した私のお弟子さんたち。

「慈母のごとき・・・」

14859686_1220903817975605_344284465


「慈母のごとき・・・」ー田中利典著述集281111

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今日は今年11月で三回忌をお迎えになる吉野山・東南院前ご母堂さまのこと。感謝を込めて書いた2年前の文章です。

*******************

「慈母のごとき・・・」

私は比叡山高校に入る前、十五才のときに第二八世金峯山寺管領故順教猊下のもとで得度受戒し、その後、夏になるとご自坊の東南院にお手伝いに上がった。あの頃の東南院は林間学校の生徒で一杯で、連日とても忙しかったことが懐かしい。

高校卒業後は一年間、東南院で随身し、その間に四度加行も履修させていただいた。一年後には龍谷大学に入ったが、夏になるとやはり東南院の手伝いに帰山した。私にとっては東南院はまさに第二の故郷であり、事実、東南院に戻る度に奥様からは「おかえりなさい」と言っていただいていた。その奥様が先月逝去された。九十三才の生涯を閉じられたのである。またひとつ故郷を亡くしたような、漠々たる寂しさを禁じ得ない。

私は今でも東南院のお内仏(仏壇)に、ことある度にお参りさせていただいている。縁あって弟が東南院の住職に就いたことも関係なくはないが、それよりも私自身が長く東南院での随身生活を送り、このお寺で僧侶にしていただいたという思いがあるからである。その随身生活にはいつも奥様がおいでになった。奥様に物心ともにお世話になったお蔭で、今の私があるのは間違いない。故に、なにほどの恩返しも出来ないまま、今生の別れとなったと思うと、ただ寂しいだけではなく、申し訳ない思いで胸が一杯になる。

奥様は南満州国でお生まれになり、終戦を経て、満州からの引き上げ後は、神職をされていた父君とともに、橿原神宮、丹生川上中社と居を変えられた。そんな中で、五條順教猊下とご縁を得られ、ご令室として東南院に入られたのである。以後、六十数年、東南院の護持経営とその発展に身を尽くされ、また順教猊下を支えて宗門の隆盛にも大いに力を果たされた。

私のこと、弟のことを思うにつけ、東南院さまと私どもとのご縁は深いが、そこにはいつも奥様の存在があった。優しい眼差しの奥にある真実を見通す涼やかな目、そしてその慈母の如き慈しみに満ちたご尊顔。順教猊下の恩徳とともに生涯忘れずに感謝申しあげたいと思っている。 

ー「金峯山時報平成26年12月号所収、蔵王清風」より

*****************

*写真は春の東南院多宝塔。この風景の中には常に慈母のごとき親奥様の姿があった。

「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」

Img_0

「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー田中利典著述集281110

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今日は「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー。これは7年前の文章だが、ここに書いた通り、昨年の高野山開創1200年記念事業には、この弘法大師開創の道がみごとに開闢され、記念年の事業に花を添えた。

私は記念年にはすでに山を下りて、その直接の慶事に参加出来なかったが、それに至るまで7年間のはじまりに際して、私なりの熱い思いがあったことが伝わってくる一文である。

*******************

「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」

過日「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」が正式に立ち上がった。昨年の五月から高野山金剛峯寺と金峯山寺との間で、発足に向けての準備話し合いが始まり、奈良県や和歌山県の県庁はじめ関係市町村などの観光担当者も巻き込んで、大きな広がりを持った取り組みを行ってきた。

平成二十七年に高野山は高野開創千二百年記念の年を迎える。弘法大師空海が弘仁七年(八一六)、真言密教の根本道場とするために、時の帝、嵯峨天皇に高野山下賜の請願を上奏し、これに対し嵯峨天皇は高野山下賜の太政官符を下し、七里四方の山林が与えられることになった。高野山の歴史の始まりである。その開創千二百年に当たる平成二十七年に向けて、金峯山寺も協力して連携するところとなった。

「空海、少年の日、好んで山水を渉覧す。吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かいて去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)蹊(みち)絶えたり」…。この一文は空海選による「性霊集」に記述される有名な文言で、空海が高野を見つけるに至る経緯を明らかにしている。

若き日の少年空海は、吉野から大峯を経て、高野へとたどり着くのである。これは単に道筋だけの問題ではなく、役行者という山林修行者の世界と、空海という真言密教者の世界が根底で繋がっていたという日本文化史、日本宗教史上の問題提起でもある、と私は捉えている。

近年、吉野大峯の世界遺産登録や修験道ルネッサンスの提唱などの活動を通じて、修験道が脚光をあびつつあるが、私から見ればまだまだその本質が正当に評価されているとは思えない。日本仏教の源流に山岳信仰や修験道の果たした役割は極めて大きいというのが私の持論だが、今回の高野の道プロジェクトも弘法大師の足跡をたどる活動を通じて、如何に山岳信仰、山林修行の世界が重大な意義を持っていたのか、見直されるきっかけにしたいと思っているのである。

そして平成の御代に、この高野山開創の道がふたたび甦えり、現代の人々に歩いていただくことで、その世界の持つ素晴らしさや聖なる体験の場を作っていきたいと願っているのだ。 

ー「金峯山時報平成22年11月号所収、蔵王清風」より

*****************

読み返すといろんな思いがよみがえるが、ひとえに運のよい、素晴らしい人との巡り合わせを感じています。

綾部人である、当時の金剛峯寺村上保寿先生との邂逅がなければ出来ていない事業であるし、奈良県庁の福野主査の力添えがあってこそのプロジェクト事業だった。「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録と並んで、不可思議な人の縁が、私に身の丈を遙かにこえた事業成功の道を導いてくれたのであった。

私は15才で比叡山との縁を得て、その後、伝教大師に連なるたくさんの天台僧と若くして知己を得たが、この弘法大師プロジェクトを前後して以降は、真言宗のお坊様とも広くのご縁をいただくことになった。この11月からは弘法大師が設立された日本で一番歴史のある「種智院大学」に客員教授として招かれ講義を受け持つことになるが、弘法大師の冥加をつくづくと感じている今日この頃である。

*写真は弘法大師空海さま。

より以前の記事一覧

本・著作

最近のトラックバック

Twitter

  • Follow me
  • Twitter
    TwitterPowered by 119
2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ